第292話:『荒野のティータイム、狼たちの選択』
ゴードとエルラは、弾かれたようにゲルの分厚い幕を乱暴に開け放ち、外へと飛び出した。
だが、彼らを迎えたのは、いつもの活気ある野営地の喧騒ではなかった。
日はすでに西の地平線に没し、空は深い群青から闇へと沈もうとしている。
しん、と静まり返っていた。
全てのゲルの幕は固く閉じられ、人影一つない。ただ、荒野の風が砂塵を巻き上げ、ヒョウヒョウと虚しく吹き抜けていくだけ。まるで、世界から音が消え失せたかのようだった。
「……な、何だ……この静けさは……!」
ゴードの背筋を、冷たい汗が伝った。彼らの護衛たちも異様な気配に呑まれ、剣の柄に手をかけたまま動けない。
その、静寂の中心。
野営地の中央広場に、パチパチと爆ぜる篝火(かがり火)に照らされた、ありえない光景が広がっていた。
荒れた土の上に、雪のように白いクロスが掛けられたテーブルと椅子。
そこに、夜の闇より深いドレスを纏い、銀の仮面をつけた少女が一人、優雅に座っていた。
揺らめく炎が、銀の仮面と、卓上のティーカップから立ち上る湯気を幻想的に照らし出している。彼女は指先で小さなケーキを乗せた皿の縁をなぞり、時折、楽しげに紅茶を口に運んでいる。まるで王宮の庭園にいるかのような振る舞いだった。
その背後には、抜き身の剣を構えた女騎士と、影そのものが人の形をとったような男が、石像のように佇んでいた。その二人が放つ殺気だけで、周囲の空気がビリビリと震えている。
少女が、こちらに気づいた。
仮面の下で、にこりと微笑む気配がした。
「――お待ちしておりました」
凛とした鈴のような声。彼女は手招きをした。
そのあまりにシュールな光景に、ゴードとエルラはただ立ち尽くすしかなかった。
「……族長、囲まれています……!」
側近の一人が、悲鳴のような声を絞り出した。
いつの間にか、周囲のゲルの影、水汲み場の陰、あらゆる物陰から、無数の気配が滲み出していた。姿は見えない。だが、数千の瞳に見下ろされているような重圧が、彼らの肌を刺していた。
「……こんな、ハッタリで、我らが屈するとでも……!」
ゴードは刀に手をかけ、震える声で虚勢を張った。
その時、仮面の少女がゆっくりと立ち上がった。
「さあ、こちらにいらしてください。急ごしらえで申し訳ありませんが、温かいお茶が入りましたので」
拒絶を許さぬ、絶対的な招待。
そこへ、背後から聞き慣れた豪放な声が被さった。
「おお、天翼殿! ようこそおいでなされた! お待ちしておりましたぞ!」
バラクだった。彼は二人の族長を追い越して悠然と歩み寄ると、さも親しげに少女へ片手を上げた。
「本日は客人が十人ほど来られてのぉ? いやなに、わしらと行動を共にしておった、二部族の長どもよ」
「!」
ゴードとエルラは、目を見張った。
「ば、バラク! 貴様、やはり裏切ったか!」
「ん? 何のことかの?」
バラクは飄々と首をかしげる。
「わしは、『部族の者に仇なす者が敵』、という考え方でのぅ。それで、落ち着いて考えてみたら、敵はクルガンであったというだけじゃが……違ごうたかの?」
彼は、呆気に取られる二人を尻目に、仮面の少女に深々と頭を下げた。
「少なくとも、我らの部族から病の呪いを払い、塩や鉄を売ってくださり、子らに笑顔を取り戻してくださった天翼どのは、まこと救いの天使じゃ」
そして、バラクは二人の族長に向き直る。篝火の光が、その古狼の瞳を赤く染め上げていた。
「……して、ぬしら、どうするのかの?」
その声は、どこまでも穏やかで、それゆえに残酷だった。
「せっかく天翼殿が手を差し伸べようとしてくださっておるのに……もったいないのぉ。おそらくは、部族が存続できる、最後の好機じゃと思うが」
バラクはチラリと、闇に沈む周囲の包囲網へ視線を流した。
「……このまま帰って、クルガンにすり潰される方が、良いと見える。……いや、ここを出る前に、帝国の精鋭にすり潰されるのが先か」
その言葉が、二人の族長の心に、最後の楔となって打ち込まれた。
進めば地獄、退けば地獄(帝国)。
だが、目の前の白いテーブルには、甘い香りと湯気が立ち上っている。
ゴードとエルラは顔を見合わせ、武器から手を離した。
彼らは、ただ固く唇を結び、導かれるように白いテーブルへと歩み出した。




