第291話:『若獅子の戯れ、狼たちの選択』
バラクがゲルに戻ると中の空気は先程よりもさらに重く冷え切っていた。
ゴードとエルラは腕を組み、煮え切らない表情で床の一点を見つめている。彼らの背後では屈強な側近たちが抜き身の剣に手をかけ、いつでも動ける体勢で控えていた。
その緊迫した空気をバラクはまるで春風のように軽やかな一言でかき乱した。
「さて。主らはこれからどうするのかな?」
その問いにゴードが弾かれたように顔を上げる。
「決まっている! クルガンに従うしかないだろう!」
その声は自らに言い聞かせているかのように悲壮だった。
「帝国には既に仕掛けた。後戻りはできまい。それに我が部族だけがクルガンに逆らったとて、その先に道はない!」
「ふふっ。了見が狭いのぉ」
「なっ……!」
あまりに不遜なバラクの言葉にゴードの顔が怒りに染まる。
「私は、第三の道を歩もうかと、決断したところでな」
バラクは楽しげに続ける。
「可愛い嬢ちゃんと仲良くできる道が開けたようでな? ふふっ、はっはっは!」
「……狂ったか!」
「んー? 私は大真面目じゃよ」
バラクの瞳が悪戯っぽく、しかし底知れぬ光を宿してきらめいた。
「この世には、遥かに広い見識と行動力を持った、翼を持つ者がおってな。はっはっは! とても敵わぬわ!…まぁ、主らも会えば分かる」
その時ゲルの外から微かな、しかし確かな地響きが伝わってきた。馬蹄の音。それもただの数騎ではない。鉄の壁がこの野営地を静かに包囲し始めている音だった。ゴードとエルラの側近たちが緊張に顔を強張らせる。
「ここに来たのは我が部族の異変を聞きつけたからであろう?… 我が部族はもう、忌まわしい呪いからは解放されたわ」
バラクはその動揺には気づかぬふりで言葉を続ける。
「それにまだ気づかぬか? …その飯、美味いと思わんか?」
「……どういうことだ?」
「なに、天使が現れてな。今は我らをその広き見識で導いてくださる」
バラクはそこで一度言葉を切り、強い視線で二人の族長の目を射抜いた。
「死を振りまくクルガンと、生きる道を示してくださる天使と。……悩むまでもあるまい」
「……バラク殿」
エルラが氷のように冷たい声で遮った。
「我らはそのような妄言を聞きに来たわけではない。それ以上絵空事を語るというのであれば我らは辞退させていただこう」
「……ふむ? できるかな?」
バラクの唇に不敵な笑みが浮かんだ。
「……っ! 何をした!?」
ゴードがその笑みの裏にあるものに気づき、声を荒らげた。
「まあ、できるのならば、気をつけて帰られるが良い」
バラクは肩をすくめ、楽しげに続けた。
「我が天使は、抗う者には容赦せぬ武天使のようであるからな……はっはっは!」
その高笑いがゲルの中を支配した。
二人の族長は言葉を失いただ顔を見合わせるだけだった。彼らは見えざる鉄の檻の中にいることをようやく悟った。




