第288話:『日盛りの土煙、盤外の来訪者』
太陽は天頂を過ぎ、西の空へとゆっくりと傾き始めていた。
荒野の風には微かに夕暮れの予兆となる冷たさが混じり始めていたが、まだ視界は明瞭だ。
風読む民の野営地は、昼の作業を終え、夕刻の支度にかかる前の穏やかな空気に包まれている。ゲルの外からは子供たちの甲高い笑い声や家畜を追う牧童の指笛が聞こえてくる。
私はバラクのゲルの中で、セラやアランと共に地図を広げていた。
天幕の天窓から差し込む陽光が、地図上の交易ルートを明るく照らし出している。
「――鉄製品の運搬にはこの涸れ谷のルートを使うのが安全かと」
「ええ。ですが、雨季の備えも必要ですね」
具体的な計画を詰める穏やかな時間は、唐突に引き裂かれた。
ゲルの入り口の幕が音もなく揺れ、一つの影が滑り込んできた。
『影の部隊』の一人だ。彼はゲッコーの前に進み出ると、誰にも聞こえぬ声で数言囁いた。
その瞬間、ゲッコーの纏う空気が昼下がりの気だるさを切り裂く剃刀のように鋭利なものへと変わる。彼は即座に私の傍らに歩み寄ると、その低い声には切迫した色が滲んでいた。
「――リナ様。……来ます」
「……え?」
「騎馬隊、十騎。……遠方より土煙を確認。こちらへ真っ直ぐに向かっています」
その報告にゲルの空気が一瞬で凍りついた。
セラが弾かれたように立ち上がり、その翠の瞳が氷のように鋭くアランを射抜く。
「……アラン殿。これはどういうことですか?」
言葉は丁寧だが、その声は鋼のように冷たい。疑念の刃が真っ直ぐに彼の喉元へと突きつけられていた。
「わ、私は何も……! 誓って!」
アランは顔面蒼白になり、必死に首を横に振る。その瞳に嘘の色はない。だが、状況はあまりに黒すぎた。
私はセラを視線で制すると、アランたちに気づかれぬようゲッコーにだけ聞こえる声で早口に囁いた。
「ゲッコーさん。シュタイナー中将へ連絡を。……『友好的な客人が到着したやもしれぬ。だが、念のためこの野営地を包囲できる態勢を』と。……決して気づかれぬよう細心の注意を、と付け加えてください」
「御意に」
ゲッコーは無言で頷くと、陽光の落ちるゲルの影に溶けるように消えた。
私はアランの肩を掴んだ。
「アランさん、急いでバラク族長の元へ! 私も行きます!」
何が起きているのか分からないまま、私たちは族長のゲルへと駆け込んだ。
事情を聞いたバラクの顔には驚きとそれ以上に深い困惑の色が浮かんだ。彼はゲルの入り口から外を睨みつける。
「十騎だと……? その旗印は……」
彼は舌打ちせんばかりの表情をした。
「我ら北方諸族は戦線を共にする同胞。互いの野営地を行き来することは特に珍しい事ではない。……だが、よりにもよって『今』とは…」
バラクは苦虫を噛み潰したような顔で私に向き直った。
「先日送った物資の礼か、あるいはその出処を問い詰めに来たか……。いずれにせよ、彼らを追い返すわけにはいかん。堂々と迎え入れるしかない」
それが部族間の流儀なのだろう。拒絶すれば、それこそ無用な勘繰りを招く。
「リナ殿。……誠に申し訳ないが、一時、身を隠してはいただけぬだろうか」
バラクの声は苦渋に満ちていた。
「彼らに、私が帝国と通じていると知られるのは、まだ早い。特に、貴殿のような『異質な』存在を見られれば、説明がつかなくなる」
それは、「ただの書記官」に向けるには重すぎる、配慮を含んだ言葉だった。
私はバラクの苦渋に満ちた顔を見上げ、にっこりと微笑んだ。
「お気になさらないでください、族長殿。突然のお客様ですもの、驚かせてはいけませんから」
私はあえて、物分かりの良い無邪気な少女の声色を使った。
「それに私、かくれんぼは得意なんです。……皆様のお邪魔にならないよう、息を潜めていますね」
そう言って小首をかしげてみせる私の姿は大人の事情を察して場を外す、利発な子供そのものだっただろう。
だがバラクは、その笑顔の奥にある「意図」を正確に汲み取ったようだった。張り詰めていた肩の力がふっと抜け、彼は感謝と安堵の混じった眼差しで深く頷いた。
「……かたじけない。恩に着る」
そしてバラクは、私を連れ出そうとするアランを手招きし、その肩を抱くようにして引き寄せた。ゲルの奥で地図を片付けているセラたちには聞こえぬよう、声を限界まで潜める。
「――アラン。心せよ。万が一、私が動き取れぬ状況……あるいは判断に迷う局面に陥った時は、その状況を即座にリナ殿に伝え、判断を仰げ」
アランが息を呑み、主の顔を見つめる。バラクは私を一瞥した後、アランの目を見据えて畳みかけた。
「合図は、『追加の茶と酒を全員分用意せよ』。……私がそう命じた時が、その時だ」
アランは無言で、しかし深く顎を引いて肯定の意を示した。
「……参りましょう」
私は静かに頷き、アランの案内で集落の端の方にある一つの小さな空きゲルへと身を潜めることになった。
ゲルの幕の隙間から外を覗く。
日に照らされた荒野の彼方に上がる土煙が見えた。その先頭を駆ける騎馬のシルエットが揺らめきながら、確実にこちらへ近づいてくる。
殺気立った様子はない。ごく自然な隣人を訪ねる足取りだ。
だからこそタチが悪い。
盤上の駒が、私の予期せぬタイミングで動き出してしまった。




