第287話:『ゲルの中の対話、古き祈り』
太陽が天柱を過ぎ、荒野に落ちる影が東へと伸び始めた頃。
乾いた風が吹き抜ける大地の先に、点在するゲル(移動式住居)の群れが見えてきた。バラクの部族の野営地だ。
近づくにつれ、そこが奇妙な静寂に支配されているのが分かった。
生活の音はなく、ただ風が天幕を叩く音だけが響く。ゲルの入り口や日陰からは、無数の好奇と警戒が入り混じった視線が、日差しの下で露わに突き刺さってくる。
だが、その視線の中には明らかに温かい光も混じっていた。病から回復した者やその家族が、ゲルの影から姿を現し、遠巻きながらも感謝するように、あるいは崇めるように静かに頭を下げているのが見えた。
馬車が止まると、バラクが自らのゲルから姿を現し、私たちを出迎えた。
彼はまず帝国からの親善大使であるセラに族長としての礼を取った。
「ようこそお越しくださった、帝国からの使者殿。約束通り最高の乳酒を用意しておる」
そして私の前に進み出ると、そのごつごつした大きな手で私の肩を一度だけ力強く、しかし優しく叩いた。
「そして、リナ殿。よくぞ参られた。貴殿には感謝している。アランたちを救ってくれたこと、そして我らと軍師殿との縁を結んでくれたこと、重ねて礼を言う」
その声には確かな歓迎の色が宿っていた。
◇◆◇
ゲルの中は外の光が遮られ、薄暗い空間に焚火の熱気と干し肉の香ばしい匂いが満ちていた。
天幕の隙間から差し込む一筋の光が、舞い上がる塵を照らし出している。
私たちはもてなしの乳酒と干し肉を振る舞われる。バラクはセラを相手に部族の現状やクルガンへの不満を、言葉を選びながら語った。私はその傍らでただ静かに通訳に徹している。
バラクは時折、重要な事柄を語る際に、セラではなく、私の顔をじっと見つめて言葉を紡いだ。その瞳は、通訳という役目を超え、私の判断を直接仰いでいるかのようだった。
「――クルガン様は、我らをただの捨て駒としか見ておらん。……先の戦でも、我らに与えられたのは最も粗末な武具と、最も危険な突撃指示だけだった」
彼はそう言うと杯に残った乳酒を一気に飲み干した。そしてふと漏らすように、独り言のように呟いた。
「……だが、貴殿の『慈悲は時に最も効率的な武器となる』という言葉。……今ならば、その意味が骨の髄まで分かる気がする」
その言葉は私と『天翼の軍師』だけが交わしたはずの言葉だった。
セラが一瞬訝しげな顔をしたが、私は表情を変えず、ただバラクの言葉を淡々とセラへ通訳する。バラクもまた、今のはただの失言だったとでも言うように、何食わぬ顔で話を続けた。
話が一段落したところで、私は「よろしければ、少し野営地の中を見せてはいただけませんか」と提案した。
バラクは快諾し、アランを案内役につける。
◇◆◇
アランの案内で村を回る私たちに、人々は好奇の目を向けた。
特に子供たちが物珍しそうに遠巻きについてくる。私は立ち止まると、その子供たちに向かってにっこりと微笑んだ。
そしてクララさんから持たせてもらった焼き菓子を懐から取り出し、一番近くにいた小さな女の子に「どうぞ」と差し出す。
女の子は最初は警戒していたが、甘い香りに誘われておそるおそる受け取り、一口かじる。その顔がぱっと輝いた瞬間、他の子供たちがわっと群がってきた。
私は子供たちの輪の中心で一人ひとりに菓子を手渡していく。その屈託のない笑顔と歓声が野営地の重い空気を少しだけ和らげた。
その時、人々の輪を割って一人の老人がずかずかと進み出てきた。
顔中に深い皺が刻まれ、その瞳は洞窟の奥で燃える鬼火のようにギラギラと光っている。骨と鳥の羽根で飾られた杖を握りしめ、その切っ先が震えていた。部族のシャーマンだ。
「魔女めが!」
枯れた木が擦れ合うような嗄れた声が、子供たちの歓声を切り裂いた。
空気が一瞬で凍りつき、大人たちの顔に再び警戒と恐怖の色が浮かび上がる。アランが「 無礼であろう!」と声を荒らげ、私の前に立ちはだかった。
シャーマンはアランなど意にも介さず、その杖で私の手にある菓子を指し示した。
「その甘い毒で、我らが子らの魂を蝕む気か! 帝国のやり方はいつもそうだ! 飴を与え骨の髄までしゃぶり尽くす!」
その言葉に遠巻きに見ていた年寄りたちがざわめき、不安げに顔を見合わせる。
私はアランの腕をそっと引き、彼の背後から一歩前に出た。
そしてシャーマンに向き直ると、流暢な彼らの言葉で静かに語りかけた。
「――偉大なる魂の導き手よ。あなたの怒りは民を思うが故のもの。その尊いお心に、私は敬意を表します」
シャーマンの動きがぴたりと止まった。彼の目に信じられないものを見るような驚愕の色が浮かぶ。
私は続けた。
「あなたの祈りは民の心を救う力。私がもたらした知識は民の体を救う力。どちらも源は同じ。民の未来を願う、ただ一つの心です」
私は子供たちの輪に振り返り、先ほど菓子を受け取った女の子に微笑みかけた。
「一つ、いただけますか?」
女の子はこくりと頷き、菓子を差し出す。私はそれを受け取ると、シャーマンの目の前でゆっくりと口に運び、咀嚼してみせた。
その堂々とした、しかし敬意に満ちた態度にシャーマンは言葉を失った。周囲のざわめきもいつしか止み、誰もが固唾をのんでその光景を見守っている。
シャーマンは何かを言おうと唇を震わせたが、結局忌々しげに舌打ちを一つすると、杖を突きながら人々の輪から去っていった。その背中には敗北ではない、次の一手を思考する古狼のような執念が宿っていた。
一度凍りついた空気はすぐには溶けない。
子供たちはシャーマンの怒声と大人たちの不安げな視線に怯え、楽しげだった輪は解け、遠巻きに私を見つめているだけだった。
私は胸が締め付けられるような痛みを感じながら、子供たちに向かって小さく頭を下げた。
「ごめんなさい。……驚かせてしまいましたね」
その声はか細く、風に掻き消されそうだった。私はアランたちに「……戻りましょうか」と告げ、踵を返した。
その時だった。
くぃと。
私のワンピースの裾が小さな力で引き留められた。
振り返るとそこに立っていたのは、最初に菓子を受け取ったあの小さな女の子だった。彼女は私の裾をぎゅっと握りしめ、潤んだ大きな瞳で私を見上げている。そしてふるふると、小さく首を横に振った。
声にはならないほどの声。だが確かな言葉が伝わってくる。
「ううん。怖くなかったよ」
「ずっと、みんな悲しい顔ばっかりだった。……でも、お姉ちゃんが来て、美味しいのくれて、みんな笑ったんだよ」
女の子は私の裾を握っていない方の小さな手で、自分の胸をとん、とん、と叩いた。そしてはにかむように、精一杯の笑顔を見せた。
「だから、ありがとう」
その瞬間、私の心の中で何かが決壊した。
堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。私はその場に膝をつくと、小さな体を壊れやすい宝物に触れるかのようにそっと抱きしめた。
「……ううん。……私の方こそありがとう」
震える声で私は囁き返した。
「これからはもう大丈夫。……ずっと、みんなで笑っていられるから」
私の腕の中で女の子がこくりと頷く気配がした。
その温かい光景に、遠巻きに見ていた他の子供たちも一人また一人と駆け寄ってくる。やがて私の周りには再び、小さくて温かい輪ができていた。
その光景をバラクは少し離れたゲルの影から全て見ていた。
この小さな少女がもたらした光が、古き伝統という根深い影さえも照らし始めている。その事実に彼は畏怖と、そして確かな希望を感じずにはいられなかった。
どうも世界に入りきれない。改稿の筆が重い。なんだこれは。
ああ。なるほど。浮かれているな、わたし。




