こぼれ話:『ゲッコーの後悔と鍛錬』
1話、幕間挟まさせて頂きます。
聖女マリアの奇跡により、砕かれた骨と引き裂かれた肉が癒えたその夜のこと。
ポルト・アウレオの地下深く機密結社『青の洞窟』の一角にある訓練場は、異様な殺気に満ちていた。
「――ふっ!」
鋭い呼気と共に銀色の閃光が闇を切り裂く。
ゲッコーは一人黙々と剣を振るっていた。だがそれは通常の素振りではない。
両足首と両手首に船の錨にも使われる重い鉄鎖を巻きつけ、さらに背中には巨大な岩塊を背負っているのだ。常人なら立ち上がることすらままならない負荷。
その状態で彼は目にも留まらぬ速さで双剣を操り、見えざる敵――あの狂戦士バルドルを想定した影と延々と斬り結んでいた。
汗が滝のように流れ、全身の筋肉が悲鳴を上げている。だが彼の瞳は氷のように冷徹だった。
(……遅い)
脳裏に焼き付いているのはあの瞬間の無力さ。リナ様を守れなかった。あの一撃を受け流せなかった。その悔恨が彼を突き動かす唯一の燃料だった。
「……おい、あれを見ろよ」
「……信じられん」
訓練場の入り口で見回りに来た現地の『影』たちが息を呑んで立ち尽くしていた。
彼らの目の前でゲッコーの姿が不意にブレたかと思うと、次の瞬間には掻き消えていたのだ。
「き、消えた!? どこだ!」
「上だ!」
見上げれば天井の梁に逆さまに張り付き、そこから音もなく落下してくる黒い影。着地の衝撃音すらしない。
「……化け物だ」
畏怖とそして隠しきれない羨望。同じ道を志す者としてその圧倒的な「強さ」への憧れが彼らの胸を熱くしていた。
◇◆◇
翌朝。
機密結社の会議室でマリアが優雅に紅茶を傾け、今後の作戦についてセラやライナーと協議していたその時だった。
「――それで、ゲッコーは?」
マリアがふと顔を上げる。
その瞬間。
彼女のすぐ目の前、吐息がかかるほどの至近距離に傷だらけの無骨な顔があった。
「「きゃあっ!?」」
マリアとセラが同時に悲鳴を上げ、椅子ごと飛び退く。
そこにいたのはゲッコーだった。いつからそこにいたのか。扉が開く音も足音も、気配すらも全く感じさせなかった。まるで最初からそこの空気が凝固して人の形を成していたかのように。
「……早く、お席にお着きになって」
マリアが胸を押さえ、頬を紅潮させて睨みつける。心臓が早鐘のように鳴っているのが分かる。
「……失礼」
ゲッコーは短く詫びると音もなく指定された席へ滑り込んだ。
だがその無表情な顔の下で彼は内心ほくそ笑んでいた。
(……今日は50センチまで詰められたか。……よし)
彼の口の端がニィッと吊り上がる。
(次はあと10センチ……)
そう。彼にとってこの会議の場でさえも戦場であり鍛錬の場だった。
リナ様を守れなかった悔恨。それを拭い去るためにはただ剣を振るうだけでは足りない。
気配を断ち影に溶け、認識の外から敵を制圧する。
「常に其処に在り、しかし誰にも認識されない」
究極の隠密。その領域に足を踏み入れなければあの狂戦士のような理不尽な暴力からは主君を守りきれない。
会議の後、廊下ですれ違う現地の『影』たちが戦慄の表情で彼を見送る。
彼らの目の前でゲッコーが壁の影に溶け込んだかと思うと、次の瞬間には遥か後方の扉の前に立っていたのだ。
「縮地か? いや、認識阻害の術か何か……?」
「あれが噂に聞く、我々『影』の頂点……!」
ゲッコーは彼らの視線など意に介さない。
ただひたすらに己を研ぎ澄ます。
全てはあの小さな主君のために。
その日以来マリアの周囲では「気づけば背後にゲッコーがいる」という怪奇現象が多発し、聖女様の悲鳴とゲッコーの微かな含み笑いが密かに響くことになったという。
ゲッコーさん、ちょっとズレてて楽しい♪




