第286話:『荒野の合流、獅子の学び舎』
帝国の最後の監視塔が地平線の彼方へと蜃気楼のように溶けていく。
整備された街道は途切れ、馬車の車輪が踏みしめるのは、ただ風が吹き抜けるだけの荒涼とした大地だった。車輪が石に乗り上げるたびに、内臓が揺さぶられる鈍い衝撃が走る。車窓を流れる景色から色彩が消え、乾いた土と枯れ草の匂いが窓の隙間から忍び込んできた。
(この道の先に、本当に答えはあるのだろうか)
私は窓の外に広がるどこまでも続く茶色の大地を見つめていた。
(それでも、行かなければ)
車内の空気もまた張り詰めている。
私は書記官リナとしてセラさんと向かい合って座っていた。彼女の膝の上には公式な挨拶状が置かれている。今回の旅では表向きの交渉役はセラさんが「帝国からの親善大使」として担い、私はその補佐兼通訳という立場だ。
御者台ではヴォルフラムさんが手綱を握り、その隣でゲッコーさんが鷹のような目で周囲を警戒している。
◇◆◇
私たちが去った後の北壁の砦では残された若き獅子たちが手持ち無沙汰に、しかしどこか落ち着かない様子で練兵場を眺めていた。
そんな彼らの元を監査官アイゼンハルトが訪れた。
「皇子殿下。もしよろしければ、この砦の備蓄物資の帳簿を共に確認していただけませんか」
その声は軍議の時とは違う、静かで実務的な響きを持っていた。
「軍師殿の不在中、我々にもできることがあるはずです」
最初は渋っていたユリウスたちだが、レオンが「面白い」と興味を示し、しぶしぶ同行することになった。
埃っぽく、鉄と革の匂いがこもる巨大な倉庫。山と積まれた物資リストと格闘するうち彼らはアイゼンハルトがただの堅物ではないことに気づき始めた。
「待て」
ゼイドが無心で剣の数を数えているとアイゼンハルトの鋭い声が飛んだ。
「その剣一本がこの北壁に届くまでどれだけの人間と物資が動くか、考えたことはあるか」
「え?」
「鉱石を掘る者、鉄を打つ者、柄を作る者、それを運ぶ者。その全てに飯を食わせ寝床を与える金がいる。戦とは剣を振るうだけではない。数字の戦いだ」
ゼイドは雷に打たれたように立ち尽くした。
「この革の消費量、多すぎる。このままでは冬を越せん。毛皮との交換レートを見直すべきだ」
アイゼンハルトの指が示す数字の裏には民や兵士の生活への深い洞察力があった。
「……いや、子爵。そのレートでは毛皮を納める民の生活が圧迫される。もう少し帝国側に不利な条件でも……」
レオンが学んできた経済理論で反論を試みる。
「甘いな」
アイゼンハルトはそれを一蹴した。「目先の同情でレートを歪めれば市場の均衡が崩れる。結果、より多くの民が苦しむことになる。必要なのは施しではない。持続可能な『仕組み』だ」
机上の空論と現実の違いを突きつけられ、レオンはぐっと言葉に詰まった。
アイゼンハルトは皇子たちの素直な疑問や時に的を射た意見に触れ、彼らへの認識を改めていた。
(……陛下が彼らを次代と信じる理由が少しだけ分かった気がする)
奇妙な師弟関係が埃っぽい倉庫の中で芽生え始めていた。
◇◆◇
陽が荒野を黄金色に染め、私たちの影を地に引き伸ばしていた。
馬車が目印となる奇岩の前で停止する。風の音だけが響く静寂の中、地平線の彼方から数騎の影が現れた。
アランが率いる精鋭の戦士たちだった。
アランは馬から降りると、まずセラさんに丁重な礼を取り、次いで私の前に進み出た。
彼の姿を認め、私は一瞬息を呑んだ。牢で見た時とは違う。部下を率いる者としての自信と覚悟がその佇まいに現れている。
(……良かった。彼はもう大丈夫だ)
アランは私の姿を認めると、あの夜の出来事を思い出したのだろう、その顔に深い感謝の色を浮かべて頭を下げた。
「リナ殿。あの節は誠にありがとうございました。長がお待ちかねです」
彼の目には私が『天翼の軍師』に近しい重要な人物だと映っているようだった。
私たちの馬車は彼らの騎馬隊に護衛される形で野営地へと向かう。
陽の光が一行の影を荒野に落としていた。




