第285話:『猛将の直訴、皇帝の深謀』
帝都皇宮の長い回廊を、雷鳴のような足音が響き渡っていた。
すれ違う文官たちがその殺気立った気配に慌てて道を開ける。東部方面軍司令官グレイグ中将。その顔は険しく、握りしめられた拳は小刻みに震えていた。
「……陛下への謁見を願いたい。緊急だ」
侍従長に取り次ぎを頼む声は努めて冷静さを保ってはいたが、その奥に隠しきれない怒気が滲み出ていた。
◇◆◇
通されたのは公式の謁見の間ではなく、奥の執務室だった。
皇帝ゼノンは書類から顔を上げ、入室してきたグレイグを面白そうに見やった。傍らには宰相アルバートがやれやれといった顔で控えている。
グレイグは入室するなり定められた礼法に則り、片膝をついて臣下の礼をとった。
「大陸防衛軍総合顧問、グレイグ。参内いたしました」
「うむ。面を上げよ。……して、グレイグよ。忙しい身であろうに、鬼のような形相で駆け込んでくるとは。北からの風にでも当てられたか」
皇帝の悪戯な言葉にグレイグは顔を上げた。その瞳は真っ直ぐに皇帝を射抜いている。
「陛下。単刀直入にお尋ねいたします」
グレイグの声は低く重かった。
「北壁の砦に『天翼の軍師』の元へアイゼンハルト子爵を監査官として送り込まれましたな」
「左様。それが何か?」
皇帝は涼しい顔で答える。
「リナ……軍師殿が自らの力の根源を探るため北へ向かったことは存じておりました。また現地の情勢により彼女が危険を承知で敵地へ赴くことも先ほど通信にて報告を受け、苦渋の決断ながら許可いたしました」
グレイグは一度言葉を切り、グッと拳を握りしめた。
「ですがなぜこの極限の状況下でアイゼンハルトのような男を送り込まれたのですか」
「あの男は優秀な官僚だ。だがその『正義』はあまりに融通が利かず鋭すぎる。リナのような規格外の存在とは水と油。……現場を混乱させ彼女の足を引っ張ることは明白です」
グレイグの声に熱がこもる。
「彼女は今、命がけで敵の懐へ飛び込もうとしているのです。その背中から味方であるはずの帝国の法で斬りつけるような真似を……なぜなさるのですか」
それは娘のように思うリナを案じる叫びであり、同時に現場を知る指揮官としてのもっともな懸念だった。
皇帝はグレイグの訴えを静かに聞き届けた後、ゆっくりと椅子に背を預けた。
「……グレイグよ。そなたはリナを愛しておるな」
「……愚問です。あやつは私の誇りであり、守るべき希望です」
「余にとっても同じだ。あれは余が見出した最高の宝だ」
皇帝の瞳からふと柔らかな光が消え、絶対的な支配者の冷徹な光が宿った。
「だからこそ、だ。グレイグ」
「リナは奇跡だ。個人の才覚と人徳で不可能を可能にする。……だが奇跡は永続せん。リナがいなくなれば、あるいはリナが道を踏み外せば、彼女が築いたものは砂の城のように崩れ去るだろう」
皇帝は立ち上がり、窓の外、広大な帝都を見下ろした。
「帝国という巨大なシステムの中にあの異質な『理想』を根付かせるためには、システムそのものからの拒絶反応――すなわち『正論』による攻撃を乗り越えねばならんのだ」
「アイゼンハルトは帝国の『規律』そのものだ。彼がリナを否定するならリナのやり方は帝国には馴染まぬということ。……だが」
皇帝は振り返り、獰猛に笑った。
「あの石頭のアイゼンハルトさえもがリナの『覚悟』を認めその在り方を許容したならば……。リナの思想は真に帝国を変える新たな血となるだろう」
グレイグは息を呑んだ。
皇帝はリナをいじめているのではない。リナという存在を一時の英雄で終わらせず、帝国の歴史に刻まれる恒久的な変革者へと昇華させるために、最大の試練を与えているのだ。
そしてそれはアイゼンハルトという若き官僚への試練でもあった。
「……毒を食らわば皿までとおっしゃいますか」
グレイグは深いため息をついた。その顔からは険しい怒気は消えていた。
「陛下のお考え、深淵すぎて私のような武人には目眩がしますな」
「ふん。リナならばあの程度の『毒』、飲み込んで糧にするであろうよ」
「……買い被りすぎです。あやつは、中身はただの泣き虫な子供なのですよ」
グレイグは苦笑しながら立ち上がった。
「分かりました。陛下の深謀、承知いたしました。……ですが」
彼は退出する直前、振り返って釘を刺した。
「もしアイゼンハルトの刃が本当にリナの命や心を傷つけるようなことになれば……その時はこのグレイグ、軍規を犯してでも介入いたしますぞ」
「……許す」
皇帝の短い、しかし力強い一言を聞き、グレイグは深く一礼して執務室を後にした。
扉の外に出た猛将は、北の空を見上げた。
(……耐えろよリナ。そしてアイゼンハルト貴様もだ。……あの小さな巨人の前で己の小ささを知るがいい)




