第284話:『親善使節団、北へ』
北壁の砦は夜明け前から静かな熱気に満ちていた。
私の私室では侍女たちが音もなく立ち働き、旅の支度が着々と進められている。私はされるがままに、書記官リナとしての簡素だが品のある旅装に着替えさせられていた。
「――リナ様。こちらを」
クララが差し出したのは見た目は普通の革鎧だが、手に取るとずしりと重い。内側にはミスリル銀の薄いプレートがまるで鱗のように緻密に編み込まれていた。
「皇妃陛下からのご下賜品です。『私の可愛い軍師様に傷一つつけさせないように』と」
その過保護ぶりに私は思わず深いため息をついた。
「念のためですわ」
隣ではセラもまた最高級の薬草や解毒剤を小さなポーチに詰め込みながら、微笑みを浮かべている。
◇◆◇
司令部の作戦室は地図盤を囲む男たちの低い声と、駒を動かす乾いた音で満ちていた。
シュタイナー中将はヘルマンと地図を睨みつけ、後方支援部隊と先行偵察部隊の配置をミリ単位で調整している。
「斥候は三重に配置しろ! 合図も再確認だ! 何かあれば俺が直々に蒸気トラックで駆けつける!」
その顔は自らが戦場に出るかのような真剣さだった。
その様子を部屋の隅でアイゼンハルトは冷ややかに観察していた。
(……異常だ。方面軍司令官がたかが数名の護衛任務の計画に、ここまでリソースを割くとは。指揮系統の私物化とも取れる過保護ぶり……。だが)
彼は手元の帳簿に目を落とす。そこに記載された装備品のリスト――ミスリル銀のインナー、最高級の薬品の数々。それらは一個師団の装備費にも匹敵する額だった。
(これだけの投資……。皇帝陛下と皇妃陛下はあの少女一人に帝国の未来そのものを賭けておられるというのか)
中庭ではヴォルフラムがゲッコーと共に、馬や装備の最終点検を行っていた。
鞍の下、荷物の底、あらゆる場所に巧妙に隠された武器や通信機。二人のプロフェッショナルの間に言葉はないが、完璧な連携で準備が進んでいく。
そこへユリウスたちが「我々も手伝う!」と駆けつけた。だが、ロープの結び方一つ知らないその素人くさい手つきにヴォルフラムがぴしゃりと言い放つ。
「お気持ちだけ頂戴いたします」
丁重だが有無を言わさぬその言葉に三人はしょんぼりと肩を落とすしかなかった。
少し離れた回廊の影でアイゼンハルトはその光景を見下ろしていた。
(……皇子殿下があのような下働きを自ら申し出るとは。……以前の殿下ならば考えられぬことだ)
彼は腕を組み眉をひそめる。
それは皇族としての威厳の欠如か、それとも新たな器の芽吹きか。彼の論理では「非効率」と切り捨てるべき光景だが、なぜか目を離すことができなかった。あの少女の周囲では既存の価値観が次々と書き換えられていく。その事実に彼の警戒心と探究心が同時に刺激されていた。
やがて全ての準備が整った。
砦の巨大な城門の前で私、セラ、ヴォルフラム、ゲッコーの四人を乗せた馬車が静かに出発の時を待つ。
見送りに来たシュタイナーは私の前に立つと、ぶっきらぼうに告げた。
「……何かあればすぐに連絡を入れろ。一瞬で駆けつける」
その岩のような顔の奥に深い心配の色が浮かんでいた。
ユリウスたち三人も並んで立つ。
彼らは何も言わない。ただその瞳には羨望と、自分たちがここに残る意味を噛みしめるような複雑な光が宿っていた。
ゼイドの目はヴォルフラムの背中を。レオンの目はゲッコーの影を。そしてユリウスの目は馬車の小窓から見える私の横顔を、それぞれ追いかけていた。
アイゼンハルトは彼らの輪から一歩離れた場所に立っていた。
一礼もしなければ言葉もかけない。ただその灰色の瞳で、これから死地へ向かう馬車を冷徹に見据えているだけだった。
(……行きなさい、『天翼の軍師』。貴官のその『覚悟』とやらが北の凍土でどのような実を結ぶのか。あるいは無残に散るのか。……この目で最後まで見届けさせてもらう)
馬車がゆっくりと動き出す。
遠ざかる砦とそれを見送る者たちの姿。私たちは新たな交渉の舞台へと、その歩みを進めた。
若干不定期になるかも予告いたします。
※毎日、なにがしかは公開予定(笑)
気になる方は、後書き集まで。




