第281話:『軍師の誓い、魂の在り処』 -改訂版-
私はゆっくりと立ち上がるとシュタイナー中将に向き直った。
「中将閣下。少しだけお時間をいただけますでしょうか」
銀の仮面の下から響く声はどこまでも静かだった。
「グレイグ中将とも回線を繋いだまま。……セラ、ヴォルフラム、ゲッコーも残ってください。……他の方は一度席を」
有無を言わせぬ響き。シュタイナーは一瞬だけ訝しげに眉を寄せたが、やがて「……分かった」と短く応え、ユリウスたちに目配せで退室を促した。
アイゼンハルトが「監査対象の密談は見過ごせない」と反論しようとしたが、シュタイナーの鋼のような視線がそれを遮った。
「監査官殿。……少し頭を冷やされよ」
それは命令ではなかったが拒否を許さぬ絶対的な圧が込められていた。アイゼンハルトは一瞬だけ唇を噛んだが、やがて無言で一礼し、ユリウスたちと共に部屋を出て行った。その背中には屈辱と、そして理解できない何かへの戸惑いが滲んでいた。
重い扉が閉まり、部屋には大陸で最も私を深く知る者たちだけが残された。ランプの炎がそれぞれの顔に濃い影を落としている。
私はゆっくりと仮面に手をかけた。
カチリと小さな金属音が響き、銀の蝶が私の顔から離れる。ウィッグを外し元の亜麻色の髪が現れると、私はようやく深く息を吐き出した。
目の前にいるのはもう『天翼の軍師』ではない。ただの八歳の少女、リナだった。
「……不安にさせてしまいました。……ごめんなさい」
か細い声が静まり返った部屋に落ちる。
グレイグ中将の雷鳴のような叱責。セラさんの涙。ヴォルフラムさんの痛切な誓い。その一つ一つが棘のように胸に刺さっていた。
「私がなぜ危険を冒してまで自ら動こうとするのか。……その理由をお話しなければならないと思いました」
私は前世の話は伏せたまま、言葉を選び静かに語り始めた。
遠い記憶の中の灰色のオフィス。数字だけが人格を持つ無機質な世界。
そこで見た無数の「上司」たちの姿を。
「私は知っています。安全な場所から数字だけを見て駒を動かし、その結果に一喜一憂するだけの人間を。部下の流す汗も血も涙も知らず、ただ報告書の上で『成果』だけを求める者たちを」
その声には冷たい侮蔑が滲んでいた。
「彼らは人の命を『コスト』と呼びます。人の心を『変数』と呼びます。……私は決してそのような者にはなりたくない」
私は部屋にいる一人ひとりの顔を順番に見つめた。
「グレイグ中将」
『……おう』
「あなたは私の言葉を信じ、全ての責任を負うと言ってくださった。そして私の言葉が兵士の命を左右する事実から目を逸らすなと教えてくださった」
「シュタイナー中将」
「……うむ」
「あなたは私の覚悟を問い、その上で信じると決めてくださった。そしてこの国を守る盾となる覚悟を見せてくださった」
「セラさん、ヴォルフラムさん、ゲッコーさん」
三つの影が静かに私を見つめ返している。
「言葉ではなくその背中で、その剣で私を守るということがどういうことかを示してくれた。私のために傷つき、私のために涙を流してくれた」
私はそこで一度言葉を切った。込み上げる感情を抑えるように小さく唇を噛む。
「ただ安全な場所から『死地へ行け』と命じるだけの者に、私はなりたくないのです」
それは叫びだった。
「兵士たちの顔が見える場所で、彼らが感じる風を、土の匂いを、そして恐怖を私も共に感じていたい。彼らが命を賭けるその戦場で、私もまた別の形で命を賭けていたい……」
私は一度息を吸い、さらに深く心の奥底にある本当の想いを吐露した。
「……それに、私がこの目で見たいのは戦果報告の数字ではありません。敵も味方も……この戦に巻き込まれ、飢えに苦しむ人、病に倒れる人。その一人ひとりの顔です。彼らの息遣いを感じられる場所でなければ、本当の意味で犠牲を減らすための最善手は見つけられない」
「危険を冒したいわけではない。自殺志願者でもありません。ですが私の存在が、私の言葉が、そこで苦しむ誰か一人でも多くの命を救い、無用な血が流れるのを防げる可能性があるのなら……私は行かなければならないのです。……そうでなければ私は誰かに『戦え』と命じる資格がない」
私は一度だけ強く拳を握りしめた。脳裏に焼き付いて離れない、あの灰色の世界の記憶をここで断ち切るために。
「私は人の痛みを知らぬ化け物にはならない。たとえ泥に塗れようと血に塗れようと、あなた方と同じただの人間としてこの戦場に立ち続けたいのです!」
私の告白に部屋は深い沈黙に包まれた。
ランプの炎が爆ぜる乾いた音だけが響く。
最初に動いたのはシュタイナー中将だった。
彼はゆっくりと立ち上がると私の前に進み出た。そして何も言わずに、その熊のように大きな手で私の頭をわしりと一度だけ乱暴に撫でた。
その不器用な手のひらから伝わる温かさに、堪えていた涙がぽろりと頬を伝った。
『……リナよ』
グレイグ中将のひどく掠れた声が聞こえてきた。
『……そうか』
それは問いかけではなく深い納得を含んだ呟きだった。
『おれもこの目で部下の顔を見、同じ飯を食わなければ、あいつらに『死んでこい』とは言えん。……お前はその覚悟を俺たちよりもずっと深くその背中に背負っていたんだな。……気づいてやれんですまなかった』
セラさんとヴォルフラムさんが私の両脇にそっと寄り添う。その手の温もりが冷え切っていた心をじんわりと溶かしていく。
ゲッコーさんは部屋の隅の影の中で、ただ静かにその傷だらけの顔を俯かせていた。




