北の風聞 II:『一滴の希望、揺れる信仰』 276.5
夜明け前の冷気がゲルの隙間から忍び込み、バラクの強張った肌を撫でた。
一睡もできぬまま夜を明かし、彼は身じろぎもせず妻の寝顔を見守り続けていた。時折漏れる苦しげな寝息が剃刀のように彼の神経を削る。もし、あの薬が毒であったなら。自らの手で最愛の者を死に追いやったのだとしたら。その想像が彼の屈強な心を根元から蝕んでいく。
やがて東の空が白み始め、鳥のさえずりが夜の静寂を破った。
その時、それまで浅い呼吸を繰り返していた妻の瞼がゆっくりと持ち上がった。
「……あなた……?」
その声は、昨日までの熱に浮かされたものではない。驚くほどに澄み、力が宿っていた。
彼女はゆっくりと身を起こし、自分の手のひらを信じられないものを見るように見つめている。
「……体が、軽いのです。昨夜までの鉛のような重さが、嘘のように……」
その驚きと喜びに満ちた声に、バラクと駆けつけたアランは息を呑んだ。昨日までの青白い顔が嘘のように血色が良く、その瞳には確かに生命の光が戻っている。
アランは弾かれたようにゲルを飛び出した。
まだ半信半疑の母親に「族長の奥方も快復されたのです!」と必死に説得し、半ば無理やり星影草を煎じた湯を飲ませる。その苦さに顔をしかめる母親の背を彼は祈るようにさすり続けた。
昼前、女たちが洗濯物を抱えて集まる井戸端は、噂話の中心地だった。
石鹸の匂いと湿った土の匂いに混じり、囁き声が水面に落ちる雫のように、静かに、しかし確実に波紋を広げていく。
「聞いたかい? 族長様の奥方が呪いから快復なされたそうだ」
「アランの母御も今朝は自分で起き上がって粥をすすっていたとか」
最初は疑念と好奇心をない交ぜにしたものだったが、次第に熱を帯びていく。
「一体どんな秘術を…」「帝国の薬だという噂だが…本当かねぇ」
その噂を聞きつけたシャーマンが、顔を真っ赤にしてバラクのゲルへ乗り込んできた。彼は骨を飾った杖を振り上げ、激しく糾弾する。
「族長! 帝国の魔女に誑かされたか! それは偽りの癒やし! 必ずや、より大きな災いを招くぞ!」
だが、バラクは動じない。
「ならば見ているがいい。どちらが民を救う力か、すぐに分かる」
静かに、岩のように揺るぎない声で言い放った。
夕刻、病に苦しむ子供が寝かされているゲルの中は、絶望の匂いに満ちていた。
父親である戦士が熱に浮かされる我が子の手を握りしめ、苦悩している。彼はクルガンを信奉する部族内でも腕利きの男だが、今はただ無力な父親だった。ゲルの外から聞こえてくる噂が彼の心を激しく揺さぶる。
やがて彼は意を決し、人目を忍んでバラクのゲルを訪れた。
その場に膝をつくと、鍛え上げられた誇りも何もかも捨て去り、床に額をこすりつけて懇願した。
「……族長。……どうか、あの子にもその薬を」
バラクは何も言わず、黙って革袋から星影草を取り出し、彼に分け与えた。
その夜、野営地は深い静寂に包まれていた。
だが、バラクのゲルの前には一人、また一人と人影が現れる。彼らは皆家族の誰かが病に苦しむ者たちだった。昼間はバラクを遠巻きに見ていた者、クルガンを支持していた者もいる。
彼らは何も言わない。ただゲルの前に立ち、助けを求めるようにじっと幕を見つめている。
バラクはゲルの幕を開け、その光景に静かに頷いた。
彼は夜通し、訪れる者たちに黙って薬を分け与え続けた。
信仰と恐怖の天秤が、家族への愛という抗いがたい力によって確実に傾き始めていた。
先日より今月は、私用で手が取れない可能性が高いです。(昨日分より在庫放出中です)
最終推敲が甘くなる可能性がありますが、容赦(と言うか、バシバシ御指摘)くださいませ。




