間話:『玉座の前の正論』 276.2
帝都皇宮、皇帝ゼノンの執務室。
窓から射す陽光が空気中の塵を黄金色に変え、遠くで響く街の喧騒さえも心地よいBGMのように聞こえる穏やかな午後だった。
皇帝は北壁の砦から届いたばかりの紙の束に目を通しながら、満足げに喉の奥で笑った。
「はっはっは! 北の古狼どもを手懐け、見たこともない鉄の礫をよこせ、か!既に次の脅威を見据えておるわ! あの小娘は一体どこまで俺を愉しませてくれるのだ!」
その笑い声に応じるように、傍らに控える宰相アルバートも静かに口元を緩める。
だがその和やかな空気を、侍従の硬い声が引き裂いた。
「陛下。内務省のアイゼンハルト子爵が緊急の奏上をと……」
現れたのは糊のきいた襟元もかくやというほど、背筋を伸ばした若き官僚だった。その表情は硬く、憂国の色とある種の批判的な光が宿っている。
アイゼンハルト子爵はうず高く積まれた予算案の紙を前に、淀みなく、しかし鋭く切り込んだ。
「陛下。恐れながら申し上げます。軍師殿へ下賜された金貨で、先の戦で疲弊した東部三州の街道を全て舗装し直すことが可能です。にもかかわらず、その予算の大半は『航空技術開発』という、実現の目処も立たぬ計画に注ぎ込まれております」
彼の指がリナに与えられた屋敷の維持費、護衛の人件費、そして『技術研究局』や『経済特区』へ流れる莫大な予算を示す項目を正確に叩く。
「軍師殿とマキナ局長は極めて有能です。放置していても自らの情熱と才覚で勝手に成果を上げてくるでしょう。ならば彼女たちにこれ以上の『投資』は不要」
「むしろ予算を投じなければ機能しない他の部署――例えば疲弊した地方のインフラ整備や、旧式の装備しか持たない地方軍の刷新などにこそ、限りある国庫を集中投下すべきです。それこそが帝国全体の国力を底上げする最も効率的な道かと」
彼の言葉は私怨や嫉妬ではない。帝国全体の利益を最大化しようとする、為政者としてあまりに「正しい」正論。宰相アルバートは眉間に皺を寄せ、腕を組んで黙考している。皇帝もまた表情を変えずにその言葉に耳を傾けていた。
アイゼンハルトの言葉が静寂の中に重く響いている。彼は自らの論理の完璧さに自信を深め、皇帝の反応を待った。その目には「ご理解いただけましたか」という光が浮かんでいる。
だが皇帝は何も答えない。
ただ指先で玉座の肘掛けをトン、トン、と静かに叩くだけ。最初は規則正しかった音が次第に不規則になり、やがてぴたりと止まる。その視線はアイゼンハルトを通り越し窓の外の帝都へ、そして手元の報告書へと静かに移ろった。その無機質な沈黙が、部屋の緊張感をいや増しに高めていく。
やがて皇帝はゆっくりと顔を上げた。その瞳にはアイゼンハルトの予想とは全く違う、深い、深い何かが宿っていた。皇帝はただ一言、静かに告げる。
「……面白いことを言う。……下がって良い」
アイゼンハルトは一礼し退出するが、その足取りは重かった。
(なぜだ……? 論理に一点の曇りもなかったはず。なのに、まるで分厚い壁に言葉が吸い込まれていくようだった……!)
皇帝の真意を測りかね彼はただ首を傾げるしかなかった。残された皇帝と宰相の間で重い沈黙が続く。




