第274話:『湖上の休日、水面下の潮流』
湖面を渡る風が木々の葉を揺らし、さざ波の音を岸辺へと運んでくる。陽光は水面に砕け、無数のダイヤモンドダストとなってきらめいていた。
「すごい! 見て、リナ! あんなに遠くまで!」
「わあっ!」
ユリウスが力任せに投げた平たい石がまるで生き物のように水面を跳ねていく。一回、二回、三回……。そのたびにリナの甲高い歓声が湖畔に弾けた。その無邪気な笑顔につられるようにユリウスの顔にも、皇子としての仮面を脱ぎ捨てた少年らしい笑みが浮かぶ。
「どうだ! すごいだろ!」
得意げに胸を張る彼の横でゼイドが「殿下、次は私がお手本を」と袖をまくった。彼がしなやかな手首のスナップで放った石はユリウスの記録を遥かに超え、湖の中ほどまで優雅な弧を描いて消えていった。子供のように唇を尖らせるユリウスと得意げなゼイド。その光景はどこにでもある穏やかな休日のひとときだった。
レオンは少し離れた場所で湖畔に咲く珍しい紫色の花の前に屈み込んでいた。その指先が繊細な花弁に触れる。だが彼の視線は花ではなく、時折はしゃぐリナたちの姿を捉えてはその口元を微かに緩ませていた。貴族としての身分も帝国の未来を担う重責も、今はただこの穏やかな陽光の中に溶けていくようだった。
その全てをセラは少し離れたテーブル席から、姉のような優しい眼差しで見守っていた。
純白のテーブルクロスの上で彼女の白い指先が滑るように動く。だがその手にあるのは刺繍針ではない。銀のペン先が小さな羊-紙のメモの上を静かに、しかし澱みなく走っていた。
(リナ様、ようやく心から笑っておられる。……けれど、あの一言は聞き逃せない)
セラの脳裏に蘇るのは休憩中、リナがふと地図を眺めながら漏らした呟きだった。
「塩の供給予定量とバラクさんたちの部族の規模を考えると……以前の指示量では足りないかもしれませんね。ヘルマンさんに伝えて、五十樽ほど増やせますか?」
軍議の場ではない何気ない懸念。だがその一言に込められた意味の重さをセラは見逃さなかった。
ペン先がリナの懸念を具体的な指示へと変換していく。
『北方諸族への追加支援物資、塩五十樽。鉄製品は予定通り。明後日の受け渡しに間に合わせること。最優先事項』
彼女がペンを置くと同時に控えていた侍女の一人が音もなくそのメモを受け取り、木々の影へと消えていった。
メモはまるでリレーのバトンのように人知れず手渡されていく。ロッジの裏手に潜む『影』の手へ。そしてロッジの一室に設けられた臨時司令室の主、ヘルマンの元へと。
ヘルマンはセラの簡潔な指示を元に『囁きの小箱』を手に取った。低い、しかしよく通る声が砦に残る部下たちへと飛ぶ。
「こちらヘルマン。バラク部族への追加支援物資、塩を五十樽追加。鉄製品は予定通り。明後日の受け渡しに間に合わせろ」
その言葉を受け、砦の周辺に商人を装い潜んでいた『影』たちが即座に動き出す。
時を同じくして侍女長のクララがセラの傍らに音もなく進み出ていた。
「セラ様。先ほどリナ様が経済特区の労働者宿舎の衛生環境について懸念を口にされておられました。……いかがいたしましょう」
その報告にセラは一瞬だけ思考を巡らせ、即座に決断を下した。
「……ええ、私も気になっていました。ヘルマンへ伝達を。宰相府へ専門官僚の派遣を要請するよう。……現地での受け入れ準備と調整はクララ、あなたにお願いするわ」
「かしこまりました」
クララは深く一礼すると自らの『小箱』でヘルマンへと回線を繋ぐ。簡潔な報告とセラの指示を伝えるとヘルマンから即座に返答があった。
『承知した。こちらから宰相府へ繋ぐ。クララ殿は現地のマルコ殿と連携し官僚受け入れの準備を整えよ』
リナの何気ない一言が帝国という巨大な神経網を駆け巡り、具体的な政策となって実現していく。彼女が穏やかな休息を楽しんでいるまさにその裏側で。
午後の陽光がさらに傾き、湖畔のティールームは甘いケーキの香りで満ちていた。
私たちが他愛ないおしゃべりに興じていると、ふとユリウスが遠くの山裾を指さした。
「あれは……?」
そこには数条の土煙が上がっていた。
レオンも眼鏡越しに目を細める。「……馬車ではないな。煙を吐いているように見えるが……」
遠眼鏡を覗いていたセラが静かに告げた。
「マキナ局長が開発された『蒸気トラック』ですわ。おそらく北壁の砦へ向かう補給部隊でしょう」
遠く豆粒のように見える鋼鉄の獣が、馬車では考えられない速度で荒野を進んでいく。その牧歌的で、しかし確実に時代が変わりつつあることを示す光景に皇子たちは言葉を失った。自分たちの知らない場所で、世界のルールそのものが塗り替えられようとしている。その事実を彼らは肌で感じ取っていた。
やがて日が傾き、湖面が黄金色に染まる。私たちはただその美しい光景を静かに眺めていた。ユリウスたちはこの穏やかな休日の裏で、自分たちの知らない巨大な何かが動いていることを肌で感じ取っている。リナという少女の底知れなさに改めて畏敬の念を抱かずにはいられない。
(明日は何をしようかな)
私は何も知らないふりをして、ただ静かに微笑んでいた。




