閑話:『湖畔のティールーム』舞台裏狂騒曲 272.5
リナたちが深い眠りに落ちた深夜のロッジ。湖畔は月明かりと星だけが照らす静寂に包まれている……かに見えた。
ロッジの裏手、森との境界線にゲッコーが音もなく姿を現した。月の光を浴びていないその貌は闇に溶け込み、木の影から現れた『影』たちに無言のハンドサインで指示を出す。作戦開始の合図。
ほぼ同時に、ロッジの別室からクララが登場した。その後ろには戦闘準備万端といった緊張感を漂わせる侍女たちが控えている。クララは懐中時計で時間を確認し、静かに頷いた。
少し離れた丘の上でヘルマンが『囁きの小箱』を起動する。通信相手は皇妃直属の連絡官だ。「こちらヘルマン。オペレーション『甘美なる休息』、予定通り開始する」
遠くから微かな地響きが届く。ゲッコーの部隊が先行して切り拓いた獣道から、ランプの灯りを最小限に抑えた数台の蒸気トラックがまるで巨大な獣のようにぬっと姿を現した。
トラックの荷台には白いコックコートに身を包んだパティシエが荷物(繊細なケーキのパーツや食材)を必死に押さえながら、青い顔で乗っている。
「ゲッコー殿……もう少し、揺れを……」
「……贅沢を言うな」
トラックが停止すると同時に、クララ率いる侍女部隊が動いた。まるで軍隊の兵站部隊のように、リストを片手に資材(テーブル、椅子、パラソル、純白のクロス、銀食器など)を次々と荷下ろししていく。
「テーブル配置はプランAで! 風向きを考慮し、パラソルの角度は三度修正!」「銀食器は検品後、夜露に触れぬよう即座にクロスで覆いなさい!」
『影』部隊は資材運びと並行して、周囲の警戒と設営補助を行う。重いテーブルを軽々と運び、パラソルを寸分の狂いなく地面に固定していく。その無駄のない動きにパティシエが呆然と見とれていた。
◇◆◇
東の空が白み始める頃。ティールームの設営はほぼ完了し、パティシエが最後の仕上げに取り掛かっている。
だが、湖から立ち上る朝靄が彼らにとって悪夢の始まりを告げた。
「ク、クララ様! 大変です! この湿気ではメレンゲが死んでしまいます!」「パイ生地のサクサク感が……!」「チョコレートの艶が……!」
現場にパニックが広がる。最高級のケーキがただの湿気ったお菓子になりかねない。
クララは一瞬眉をひそめるが、即座に決断した。「落ち着きなさい! 想定内の事態です!」
彼女はゲッコーに視線を送る。「ゲッコーさん。例のものを」
ゲッコーは無言で頷くと、『影』の一人に指示。すぐに巨大な麻袋が複数運び込まれる。中身は大量の『乾燥剤(軍用の火薬保存に使う強力なもの)』だ。
パティシエたちが「そ、それを食品の近くで!?」と慄く中、クララは「風上に配置し、ケーキに直接触れさせなければ問題ありません!」と断言。侍女たちが手際よくケーキの周囲に結界を張るように乾燥剤を配置していく。
湿度計を確認。「湿度、目標値まで低下! 安定しました!」
◇◆◇
太陽が昇り、湖面がきらきらと輝き始める。リナが目覚めるまで、あとわずか。
パティシエたちが最後の仕上げにクリームを絞り、フルーツを飾り付ける。その顔には安堵と、とんでもない現場を乗り切ったプロとしての誇りが浮かんでいた。
ゲッコーと『影』部隊、蒸気トラックはまるで最初から何もなかったかのように森の奥へと姿を消す。彼らがいた痕跡(轍など)も完璧に消されていた。ヘルマンも通信を終え、丘から降りてくる。
クララは侍女たちの身だしなみを最終チェックした。「よろしいですか。このティールームはまるで魔法のように現れた。……いいですね?」
「「「はいっ!」」」
侍女たちの完璧な返事が朝の澄んだ空気に響いた。
ロッジの窓のカーテンが揺れ、リナが目を覚ます気配。
クララは完璧な微笑みを浮かべ、パティシエたちと共に深々と頭を下げる準備をする。
その光景はこれから始まる甘い休息の時間を予感させる、完璧な一枚の絵のようだった。




