第268話:『湖畔の休日』
北壁の砦に静かな朝が訪れていた。
だが作戦室のランプの灯りは夜通し消えることなく、私は書類の山と格闘していた。バラクとの密約、クルガンへの情報操作、そして帝都と連携した交易ルートの確保。盤上の駒が複雑に絡み合い、思考が焼き切れそうだ。
ペンを走らせる音、書類をめくる乾いた音だけが部屋の静寂を支配している。
「――セラ様。昨夜帝都より届きました報告書、取り急ぎ要点をまとめました」
ヘルマンさんが音もなくセラさんの机に新たな紙の束を置く。その目元には私と同じくらい深い隈が刻まれていたが、瞳の奥には確かな充実の色が浮かんでいた。
「ありがとうヘルマン。助かるわ」
セラはそれを受け取ると、目を通すべき優先順位をつけてから私の机へと運んできた。
「リナ様。こちらを先にご確認ください」
その様子をセラは自らの実務に関わる事務処理を進めながら静かに見守っていた。青白い顔、目の下に刻まれた隈。主君が自らを削りながら未来を紡いでいる。その痛ましい姿に彼女は静かに決意を固めた。
先日よりこの地には珍しく風も穏やかで暖かな日和となっていた。日がそろそろと上がり、この日も暖かな日和となるであろう昼にはまだ早い時。
「……よし。キリが良くなりましたね、リナ様。少しお散歩に参りましょう」
有無を言わせぬセラの優しい声に、私は「で、でも、まだこれが……」と書類の山を指さす。
その私の両脇に、すっと二つの影が立った。
セラさんが私の右腕を、そしてヴォルフラムさんが左腕をそっと、しかし抗うことのできない力で掴む。
「さあリナ様。参りましょう」
「はっ! たまの休息も重要な任務であります!」
二人は完璧な連携で私を椅子から立たせると、半ば強引に作戦室から連れ出した。外にはなぜか簡素な幌馬車が用意されている。
「これは……?」
「シュタイナー中将閣下からのささやかなご配慮ですわ」
セラは悪戯っぽく微笑む。ヴォルフラムもゲッコーも既に馬車のそばで準備を整えていた。
そこへユリウス皇子たちが駆け寄ってくる。
「我々も同行させていただきたい!」
セラの眉がぴくりと動いたが、私が「ええ、いいですよ。たまには息抜きも必要です」とあっさり頷いてしまったため彼女は深いため息をついた。
セラは振り返ると作戦室の入り口に控えていたヘルマンを手招きした。
「ヘルマン。まとめてあった必要な荷物は別便で届けてください。それからクララたちからも希望があると思うので調整をおねがいしますね」
「承知いたしました。では食材等やリナ様の替えのお召し物も念のため」
「ええ、お願いするわ。あと、皇子の補佐達にも状況を知らせて、対処をするよう伝えておいてください」
ユリウスたちは自分たちが招かれざる客であるかのような、肩身の狭い思いで立ち尽くすしかなかった。
「……リナ様のお邪魔はなさらないでくださいね」
セラは最後に三人に鋭い視線で釘を刺した。
◇◆◇
馬車は六人乗りの少し大きなもので、左右で座席が向かい合っていた。前寄りの席に私とセラさんが座り、後ろの席にはユリウス皇子たちが少し窮屈そうに収まっている。御者台にはヴォルフラムさんが手綱を握り、その隣でゲッコーさんが静かに前を見据えていた。
車輪が石畳を叩く音もやがて乾いた土の道を行く音に変わる。それでも私の頭はまだ作戦室から離れられないでいた。
「……セラさん。バラクたちへの最初の物資受け渡しは……」
私の問いにセラは穏やかに微笑み返した。
「ご心配には及びません。ゲッコーの部隊が昨夜のうちに完了させております。今のところ何の問題も」
「……そうですか。……クルガンに関する情報は……」
「明後日の受け渡しで最初の報告が上がる予定です。今は待つしかありませんわ」
彼女はそう言うと私の肩にそっとブランケットを掛けた。「今はお忘れなさい。これも軍師様の大事なお仕事ですわよ」
その言葉に私はようやく思考の海から顔を上げた。
幌の隙間からどこまでも広がる青い空と風に揺れる草原が見える。馬のいななき、車輪の軋む音、そしてどこからか聞こえてくる鳥のさえずり。それらが一つの穏やかな音楽となって耳に心地よく響いた。
私は枠に肘をつき、頬杖をつく。吹き込む風が髪を優しく撫でていく。
張り詰めていた心の糸がふっと緩んでいくのが分かった。
馬車に揺られること小一時間。
たどり着いたのは砦の喧騒が嘘のような静寂に包まれた湖畔のロッジだった。
風が木々の葉を揺らし、湖面がきらきらと陽光を反射している。鳥のさえずりだけが響くその光景に、私は思わず歓声を上げた。
「わあ……! きれい……!」
その瞬間、ユリウスたちの存在も山積みの仕事もすっかり頭から消え去っていた。
まだ喉が痛いですっ。




