第26話:『亡命の将と軍師の決断』
鷲ノ巣盆地での歴史的大勝利から、一月が過ぎた。
東部戦線は、奇妙なほどの静寂に包まれていた。大打撃を受けた王国軍は、もはや国境を維持するのがやっとで、攻勢に出る気配は微塵も感じられない。
帝国軍駐屯地は、つかの間の平穏を享受していた。兵士たちは訓練に励みつつも、その顔には以前のような悲壮感はなく、自信と余裕が満ち溢れている。
そして、私はと言えば、『慈悲の女神』という、何とも気恥ずかしい二つ名で呼ばれながらも、相変わらず書記官と軍師と料理番の三足の草鞋を履く、忙しくも平穏な日々を送っていた。
その静寂を破ったのは、ある霧深い朝のことだった。
最前線の警戒所から、緊急の報がもたらされた。
「国境地帯に、所属不明の一団が出現! 武器は保持しておらず、白旗を掲げています!」
グレイグと私は、すぐに最前線へと向かった。もちろん、私はあの豪華な輿の中だ。
霧の向こう側から現れたのは、十数名の、みすぼらしい身なりの男たちだった。彼らは皆、一様に疲れ果て、その目には深い絶望の色が浮かんでいる。だが、その中心に立つ一人の男だけは、ボロボロの衣服を着ていながらも、背筋をぴんと伸ばし、鋭い理性の光を宿した目で、まっすぐにこちらの陣地を見つめていた。
歳は三十代前半だろうか。痩せてはいるが、その佇まいは、紛れもなく、叩き上げの軍人のものだった。
「……何者だ」
グレイグが、警戒を解かずに問いかける。
すると、中心の男が一歩前に進み出た。
「……私は、元アルカディア王国軍大佐、ライナー・ミルザと申します。ここにいるのは、私の元部下たちです。我々は、祖国を捨てた亡命者。どうか、帝国軍の保護をお願いしたい」
その名前に、グレイグと、隣に控えるセラが息を呑んだ。
ライナー・ミルザ。
あの大敗を喫した王国軍で、唯一その危険性を予見していた、『悲運の秀才』。
「……亡命、だと? なぜ、今さら」
グレイグの問いに、ライナーは自嘲気味に口元を歪めた。
「先の敗戦の全責任は、私一人に押し付けられました。処刑寸前のところを、ここにいる部下たちに助け出され、国を脱出した次第です。……もはや、あの国に、私の居場所はありません」
そして、彼は、私の乗る輿へと、その視線を向けた。
「私が話したいのは、あなたではない、グレイグ将軍。……そこに、おられるのであろう? 我が軍を、いや、私を完膚なきまでに打ち破った、帝国の『謎の軍師』殿に、お目通りを願いたい」
天幕の中、ライナーと、彼の部下たちは、ただ静かに椅子に座っていた。
私は、輿の中から、赤い帳の隙間越しに、じっと彼らを観察していた。
(……部下たちの、彼を見る目。そこには、絶対の信頼と、敬愛がこもっている。そして、彼ら全員、一人でここまで来た。家族を捨てて、この人についてきたんだ。スパイや、偽りの亡命である可能性は、限りなく低い)
しばらくの沈黙の後、私は、変声器を通して口を開いた。
「……ライナー・ミルザ大佐。あなたを打ち破ったのは、私ではありません。あなた自身の国にいた、愚かな将軍たちです」
その言葉に、ライナーは目を見開いた。
「……そこまで、お見通しか」
彼は、深いため息をつくと、椅子から立ち上がり、私の輿の前に膝をついた。
「軍師殿。私は、あなたに全てを捧げます。私の知識、私の経験、そして、私の命。全ては、あなたの采配のままに。ただ、一つだけお願いがある。ここにいる、私のために全てを捨ててくれた、愚かで、忠実な部下たちを、どうか見捨てないでいただきたい」
彼の後ろで、部下たちも一斉に立ち上がり、頭を下げた。
「……おい! こいつら、何を考えてるか分からんぞ!」
グレイグが、私のそばに駆け寄り、小声で囁く。
「こいつの言うことを、鵜呑みにする気か!」
「……閣下」
私は、グレイグを制した。
「調査は、もちろんお願いします。ですが、私は、彼らを信用したいと思います」
私は、再びライナーに向き直った。その声には、軍師としての威厳と、そして、一人の人間としての覚悟を込めた。
「ライナー大佐。そして、彼の部下の方々。あなた方の身柄、この『謎の軍師』が、力の及ぶ範疇において、お預かりいたしましょう」
「! 軍師殿……!」
ライナーの目に、かすかな光が宿った。
「ただし」と、私は続けた。
「あなた方の処遇は、私一人の判断で決められるものではありません。正式な受諾には、帝都におわす、皇帝陛下の御裁可が必要です」
私は、グレイグに向き直った。その目は、有無を言わせぬ光を宿していた。
「グレイグ閣下。陛下への親書を、お願いいたします。……『このライナー・ミルザとその部下たちは、我が軍にとって、千の兵にも勝る至宝となる。彼らで、新たな遊撃部隊を編成したい。この件に関する全ての責任は、私、軍師が負う』、と」
それは、事実上の「この人たちを、私にください!」という宣言だった。
グレイグは、私のあまりに大胆な決断に、一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、やがて、いつものように、面白くてたまらないといった笑みを浮かべた。
「……ハハッ! 何か考えがあるようだな! 面白い! いいだろう、その親書、俺が責任を持って帝都へ届けてやる!」
こうして、帝国軍に、新たな、そして極めて有能な『刃』が加わることになった。
亡命者たちで構成された、その名も『軍師直属遊撃部隊』。通称、『影の部隊』。
彼らは、私の手足となり、そして、私の知略を戦場で体現する、最強の駒となる。




