第22話:『主役の交代と最後の舞台』-
乾いた風が砂塵を巻き上げる国境地帯。
『甘い毒の餌』を撒き始めてから、二週間が経とうとしていた。帝国と王国の小競り合いは泥沼の様相を呈し、その報は連日、帝国軍司令部へと届けられる。
「報告! 西の監視塔を巡る戦闘、我が軍、敵の猛攻に遭い後退!」
天幕に転がり込んできた伝令兵の声は、土埃にまみれてかすれていた。
「第三補給部隊、王国軍の襲撃を受け物資の一部を放棄! 辛くも撤退との由!」
「夜襲部隊、敵の罠に掛かり損害! 作戦は失敗に終わりました!」
もたらされるのは「敗北」の報ばかり。
だが、報告を聞く将校たちの顔に焦りの色はない。むしろ、その口の端に微かな笑みを浮かべる者さえいる。全ての損害が、事前に『天翼の軍師』が示した予測の範囲内に、針の穴を通すように正確に収まっているのだ。
彼らは理解し始めていた。この不可解な敗北が、巨大な罠の序曲に過ぎないことを。
「……軍師殿の筋書き通りだ。面白いように食いついてくる」
戦況が記された羊皮紙を指で弾き、グレイグは獣のように喉の奥で笑った。
◇◆◇
対照的に、王国軍の陣営は勝利の美酒と歪んだ熱気に満ちていた。
連日の「勝利」は、後方でふんぞり返っていただけの将軍たちの功名心を、沸騰点まで煽り立てていた。
「見たまえ! 帝国軍など、このザマではないか!」
「連戦連勝だ! この勢いのまま帝都まで攻め滅ぼしてくれるわ!」
作戦司令部の天幕の中は、汗と酒の匂いでむせ返るようだ。将軍たちは広げられた地図を拳で叩き、手柄話に花を咲かせている。
その喧騒の輪から一人外れ、天幕の隅で腕を組む男がいた。
この作戦の実質的な指揮官であるはずの、ライナー・ミルザ大佐。彼は氷のような瞳で、愚かな同胞たちを見据えていた。
「……諸君、静粛に」
ライナーの低く冷たい声が、浮かれた空気を切り裂く。
「この勝利は、あまりに都合が良すぎる。敵の損害は常に軽微。まるで我々の力を測り、何かを待っているようだ。帝国の『謎の軍師』による罠と考えるべきだ。全部隊、決して深追いはするな。守りを固め、敵の出方を待つ」
そのあまりにも慎重な意見に、功名心に最も駆られたバルガス将軍があからさまに鼻を鳴らした。
「ミルザ大佐、臆病風にでも吹かれたか! 目の前の勝利に背を向けありもしない罠に怯えるとは! それが軍人の姿か!」
「そうだ! 貴殿の憶病さが、我々の勝利を遠ざけているのだ!」
堰を切ったように、他の将軍たちも一斉にライナーを非難し始める。
そして数日前、決定的な亀裂が走った。
バルガス将軍がライナーの命令を公然と無視し、独断で手勢を率いて帝国軍の補給基地を奇襲。リナが「少し手強いがギリギリ勝てる」ように調整した守備隊との激戦(を演じさせた)の末に勝利し、英雄気取りで凱旋したのだ。
この「成功体験」が愚将たちの最後の理性を焼き払った。
彼らは徒党を組み、名目上の総司令官に詰め寄る。
「ミルザ大佐の指揮では、帝国を打ち破れん! この戦、我らが直接、指揮を執る!」
「そうだ! 臆病者は下がっていろ!」
もはや、ライナーに味方する者はいなかった。
彼は事実上、全ての指揮権を剥奪され、「後方にて、兵站管理に専念せよ」という命令を受ける。
ライナーは、何も答えなかった。
ただ、侮蔑と嘲笑の視線を向けてくる将軍たちを、一度だけ冷たく、そして深く哀れむような目で見返すと、静かに踵を返した。
天幕から出ていくその背は墓標のように静かだった。
◇◆◇
間者からの報せは、風のように早く私の元へ届いた。
ゆっくりと揺れる輿の赤い帳の奥。セラ副官が読み上げる報告に、私は静かに頷く。
「……釣れましたね」
「はい。敵将バルガス、次の狙いは我が軍の中核補給拠点“鉄槌の砦”と、陣営内で豪語している模様です」
「ご苦労様、セラさん。全て、筋書き通りです」
私はこの日のために用意しておいた最終作戦計画書を、傍らのグレイグに差し出した。
“鉄槌の砦”を巨大な囮とし、敵主力を広大な“鷲ノ巣盆地”へと誘い込み、三方から包囲殲滅する。大胆不敵にして、緻密に計算され尽くした策。
羊皮紙に目を通したグレイグは、短く息を呑み、「……完璧だ」と呟いた。そして、顔を上げる。その瞳には、狩人の獰猛な光が宿っていた。
「全軍、最終準備に取り掛かれ! 狩りの時間だ!」
そして、運命の日が来た。
指揮権を握り、自分たちが主役になったと意気揚がる王国軍の将軍たちは、何の疑いもなく、全主力を率いて「鉄槌の砦」へと進軍を開始する。
ライナーが立てた緻密な作戦計画は破り捨てられ、「ただ、力で押し潰せばよい」という単純極まりない総攻撃が採用された。彼らの頭には、輝かしい勝利と王都での凱旋式、そして甘い夢しか存在しない。
王国軍の長大な隊列が、死地とも知らず、栄光を夢見て高らかに軍靴の足音を鳴らしていく。
その様子を、遠く離れた丘の上から一人見送る影があった。
ライナー・ミルザ。
風が彼の髪を揺らす。彼は鎮魂歌を聴くように静かに目を閉じ、来たるべき大敗北と愚かな同胞たちの末路を予感していた。
最後の舞台の幕が上がる。




