第159話:『偽りの掃除婦、船出の朝』
酒場で拾ったアルビオン船員たちの声が、脳裏にこびりついて離れない。
その夜、宿屋の自室。
部屋に灯した明かりが、壁に伸びる私の影をゆらゆらと踊らせていた。開け放った窓枠の向こうから、寄せては返す単調な潮騒と、夜の港に溶けきれなかった喧騒の残り香が流れ込んでくる。だが、私の内側は、一つの巨大な「謎」が巻き起こす静かな嵐の只中にあった。
『――俺たちの荷を、予定通りに王国の“近く”の拠点まで運ぶだけだ』
王国の「中」へ、ではない。
「近く」の、「拠点」へ。
その些細で、しかし決定的な言葉の違いが、思考の網に毒蜘蛛のように絡みつく。
ロベール伯爵の反乱は鎮圧した。今の王国に、アルビオンから大量の武器を密かに受け入れるような不穏分子はいないはずだ。では、その「拠点」とはどこを指す? そして「荷」とは、一体何を意味するのか。
ヴェネーリア連合の領内か? いや、それならば『ヴェネーリアの』と言うはずだ。
まさか……。
アルビオンは王国との国境付近、無人の島か未開の地に、秘密裏に前線基地を築いているのでは――。
思考を巡らせるほど、その悍ましい可能性が冷たい輪郭を帯びてくる。
王国が内乱で疲弊し、国境の守りが手薄になった、まさにその隙を突く。大陸への本格的な侵攻を企てる、その足掛かり。拠点に運び込まれる「荷」とは、武器だけではないだろう。兵士、資材、そして恐らくは――。
(……止めなければ)
この企みを放置すれば、いずれ新生王国にとって、ひいては帝国にとっても喉元に突きつけられた刃となる。だが、どうやって? 仲間との連絡手段はなく、私が居るのはこの絶海に囚われた孤島だ。
ならば、私が動くしかないだろう。
だが、問題はあまりにも多い。
物々しい警備の敷かれた船に、どうやって乗り込む? 力ずくは論外、密航は危険がすぎる。必要なのは、「敵に悟られず、しかし公式に船に乗る」という、矛盾に満ちた方法。
答えを見つけられぬまま、窓の外が白み始めた。
私は重い頭を振り、気分を切り替えるように市場の手伝いへと向かう。今日の仕事はソフィア姐さんの事務所で、うず高く積まれた組合の会計帳簿を整理することだ。
「ったく、あの飲んだくれども! 計算が全く合やしねぇ!」
姐さんがガシガシと頭を掻きむしる。その横で、私は黙々とインクが滲んだ数字の羅列を追いかけていた。前世の知識――といっても社会人としての常識だが――であっても、この杜撰な帳簿を正すのは少々難儀なことだった。
私が計算を終え、いくつかの致命的な間違いを指摘していた、まさにその時だ。
事務所の扉が、蝶番も軋むほど激しく開かれた。
「姐さんッ!」
若い娘が一人、泣きながら転がり込んでくる。市場で働く掃除婦で、ソフィア姐さんを母のように慕う娘の一人だ。
「聞いてくださいよぉ、ひどいんですよぉ!」
彼女はしゃくりあげながら、握りしめていた一枚の羊皮紙をテーブルに叩きつけた。アルビオン商会が発行した、歪な文字が並ぶ雇用契約書。
「アルビオンの連中が、『王国の方に向かう大型輸送船の掃除婦が足りない』って……! 私、くじで選ばれて、連れて行かれることに……! あんな船、乗りたくないのにぃ……! うわあああん!」
悲痛な叫び。大型輸送船。王国の方へ。
点と点が繋がり、暗闇を貫く稲妻のように、一つの活路が閃いた。
周囲の音が、ふっと遠のく。
(……これだ!)
私は椅子を蹴立てて立ち上がると、泣きじゃくる娘の前へ進み出た。震える彼女の両手を、私の小さな手で強く、強く握りしめる。
「――あの!」
必死の形相に、娘はしゃっくりを止め、涙に濡れた目を丸くした。
「そのお仕事、私が代わりにやります!」
◇
「馬鹿野郎! あんた、本気で言ってるのかい!」
姐さんの怒声が事務所の空気を震わせた。鬼の形相で猛反対されたが、私は一歩も引かなかった。
「行かなければ、ならないんです。……故郷に帰るための手がかりが、あの船にあるかもしれないから」
嘘と真実を巧みに織り交ぜる。そして、その瞳に宿した子供らしからぬ覚悟の光に、やがて姐さんが根負けした。
「……はぁ……。またあんたは、そういう目をする…。わかったよ。わかったから…」
深い、深いため息とともに、彼女の肩から力が抜ける。そして、まだ呆然としている掃除婦に向き直った。
「……おい、アンタ。この子が代わりに行くそうだ。……口は固いだろうね?」
◇◆◇
その夜、姐さんは私を連れて馴染みの酒場を訪れた。
薄暗いランプの灯りの下、アルビオンの船で共に働くことになった他の掃除婦たちが、不安げな顔で集められている。姐さんは女たちの前に仁王立ちになると、一人一人の肩を強く掴み、低い、しかし有無を言わせぬ声で告げた。
「……いいかい、あんたたち。この子は訳アリだ。私と市場の連中が守ってる、大切な宝物でね」
その目は獲物を狙う獣のように鋭く光っている。
「船の上でこの子を見守りな。……もし、この子の身に万が一のことがあったら……」
姐さんの唇が歪み、どんな海賊よりも恐ろしい笑みを浮かべた。
「……どうなるか、わかっているとは思うけどね?」
女たちは顔を真っ青にしながら、首がもげるほど何度も頷いた。
◇◆◇
出港当日の、夜明け前。
姐さんの事務所の奥、ランプの灯りがわずかに届く小部屋で、私は鏡の破片に映る自分を見つめていた。
「ただ着るだけじゃダメだ。あんたは良くも悪くも目立つからね」
姐さんはそう呟くと、私の着る灰色のワンピースの下に、ごわごわした布切れを数枚、手際よく巻き付けていく。少女らしい体の線は消え、ずんぐりとした不格好なシルエットに変わった。
次に、冷たくなった暖炉から指でひとつまみの煤を取り、私の頬と額に無造作に塗りつける。健康的な子供の顔色は失せ、薄汚れて幸薄そうな印象になった。艶やかだった髪も、わざと乱雑にきつく結われ、数本のほつれ毛が顔にかかっている。
鏡の破片に映るのは、もう私ではない。港の片隅で埃にまみれて生きる、誰の記憶にも残らない名無しの少女だ。
「……まぁ、こんなもんだろう」
姐さんは黙って頷き、厳しい顔つきで私の両肩を掴んだ。
「いいかい、船に乗ったら絶対に目立つんじゃないよ。壁のシミにでもなったつもりでいるんだ。分かったね?」
◇◆◇
朝靄が立ち込める第七倉庫の前は、けたたましいカモメの鳴き声、船乗りたちの怒声、潮と錆の匂いが混じり合った出港前の狂騒に包まれていた。
私は他の掃除婦たちの中に紛れ込み、うつむき加減でその列の最後尾につく。腕を組んだ姐さんが、最後の見送りに来てくれていた。
「……リナ。これを持っていきな」
私の手に、小さな布のお守り袋が固く握らされる。中には、いざという時のための金貨と、折りたたみナイフの冷たい感触があった。
「……絶対に、元気に帰ってくるんだよ」
ぶっきらぼうな言葉の奥に、彼女の祈りが滲んでいた。
「……はい。……行ってきます、姐さん」
アルビオンの巨大な輸送船へと続く、潮風に揺れるタラップを一歩、また一歩と踏みしめる。
振り返れば、姐さんが厳しい、しかしどこか寂しげな顔で、じっとこちらを見つめていた。
私の新たな、そして最も危険な潜入作戦が、今、静かに幕を開けた。




