第153話:『潮騒とインク』
船影が、水平線の向こうへ溶けるように消えていく。
どれほどの時間が経っただろうか。
一度だけ振り返った港の景色が、今もなお陽炎のように瞼の裏で揺らめいていた。耳の奥深くでは、軋む音と男たちの怒声が、消えない残響となって渦を巻いている。頬にこびりついた潮の結晶が、乾いた肌をひりつかせた。
(……逃げ切った)
その安堵は、しかし、氷水のように冷たい現実によって瞬時に洗い流される。
胃の腑が鉛を飲み込んだように重い。震える指先で懐を探っても、触れるのは心許ない数枚の硬貨だけ。見知らぬ空、見知らぬ石畳。頼るべき仲間も、帰る場所もない。全くの未知に、私はたった一人で投げ出されたのだ。
感傷に浸る暇など、一瞬たりともありはしない。
(……情報。そして、雨露をしのげる寝床)
思考を無理やりねじ伏せ、切り替える。権力者の目が届きにくく、けれど人の目が多い場所。万が一、デニウスたちが戻ってきたとしても、この混沌に紛れてしまえば、小さな子供一人が掻き消えても誰も気づきはしないだろう。
私の足は、まるで導かれるように港で一番の喧騒へと向かっていた。
魚市場。生命と欲望が渦巻く場所へ。
鼻腔を突き刺す、むせ返るような磯の匂いと、魚の内臓の生々しい鉄の匂い。石畳の隙間を流れる汚水が、不意に跳ねて足首を冷たく濡らした。銀色の鱗を陽にきらめかせる魚の山に、海鳥がけたたましい叫び声を上げて急降下する。屈強な漁師たちの声は、もはや怒鳴り声にしか聞こえない。その威勢のいい声が、湿った大気の中で絶え間なく飛び交っていた。
その生命力の濁流の中へ。私は息を殺し、小さな影となって溶け込んでいく。
◇◆◇
市場の最も奥まった一角に、漁師組合の小さな詰所があった。
開け放たれた扉の向こうは、インクと汗、そして男たちの焦燥が入り混じった熱気が渦を巻く、紙と数字の戦場だった。
「ああ、クソ! また計算が合わん!」
「誰か手を貸せ! 目が、目が回りそうだ!」
数人の年配職員が、山と積まれた水揚げ伝票とインクが滲んだ帳簿の束に埋もれている。インクで真っ黒に汚れた指で、脂汗の滲む額を苛立たしげに掻きむしっていた。
私は入り口の敷居をまたぎ、喉の奥から絞り出す。自分でも驚くほどか細く、頼りない声を。
「……あの……。お手伝い、しましょうか……?」
「ああん? なんだ、チビすけ。ここは子供の遊び場じゃねぇぞ! あっちへ行け、しっしっ!」
一番近くにいた髭面の男が、帳簿から顔も上げない。まるで鬱陶しい羽虫を払うかのように、ぞんざいに手を振った。
だが、私は引かない。
彼がいらだち紛れに床へ放り投げた一枚の伝票を、そっと拾い上げる。その複雑な数字の羅列に一瞬だけ目を走らせ、まるでそこに答えが書いてあったかのように、ぽつりと呟いた。
「……三列目の数字が、ずれています。それと、合計の桁が一つ。……本当の答えは、銀貨三十七枚と銅貨八枚、です」
「…………は?」
髭面の男が、口を半開きにしたまま化石のように固まる。
室内を支配していたペンの音、紙をめくる音、呻き声。その全てが、ぴたりと止んだ。
驚愕に染まったいくつもの視線が、刃のように私に突き刺さる。
「……お、嬢ちゃん……。今、なんて……?」
「ですから、答えは……」
そこからは、私の独擅場だった。
前世で経理部にいたわけではない。だが、数字は感情を持たず、嘘をつかない。追われる身の極度の緊張が、私の頭脳を剃刀のように研ぎ澄ませていた。
床に散らばる伝票を一枚、また一枚と拾い上げる。指先がインクで黒く汚れるのも構わず、彼らが絡ませた帳簿の糸を、もつれた釣り糸を解きほぐすように、驚くべき速さで整えていく。
数時間後。
あれほど積み上がっていた書類の山は、まるで魔法でもかかったかのように、静かに片付いていた。
◇◆◇
「――ほう。……お前さんが、うちの頑固者どもの仕事を半減させたっていう噂のチビっ子かい」
案内された組合長の事務所。
部屋の空気を支配していたのは、重厚な木の机でも、壁に飾られた巨大なカジキの剥製でもない。机の向こうにどっしりと腰を下ろす、女主人そのものだった。
太陽に焼かれた褐色の肌。机の上で組まれた指は節くれ立ち、指輪が豊かな肉に深く食い込んでいる。市場の全てを取り仕切る組合長、ソフィア。その目は海の女らしく大らかに細められているが、その奥には荒くれ者たちを束ねる鋼の光が宿っていた。
私は言葉を選ぶ。真実の骨格に、嘘の肉付けをしていく。帝国軍師の顔を心の奥底に沈め、ただのか弱く、追われる少女の物語を紡ぐ。
「……悪い人たちに攫われ、遠い国から船で……。もし見つかったら、命が……」
か細い声で語られる物語に、彼女の鋼の眼光が一瞬、ふっと和らいだ。
私は、それを見逃さなかった。
「……なるほどねぇ……。そりゃあ、大変だったろうに……」
ソフィアは立ち上がると、その熊のように大きな手で、けれど驚くほど優しく、私の髪をくしゃりと掻き混ぜた。ごわごわとした硬い手のひらから、太陽と潮の匂いがする。
「……よし! 分かった! このソフィア姐さんに任せときな!」
彼女は部屋の外に向かい、窓ガラスがビリビリと震えるほどの雷鳴を轟かせた。
「おい、お前ら! この子は今日からうちの子だ! いいな! 詰所の奥の部屋を一つ空けてやんな! 文句のある奴はアタシが海に叩っ込んでやるよ!」
「「「へい、姐御ッ!」」」
外から、即座に腹の底から絞り出したような返事が響き渡る。
こうして私は、サンタ・ルチア魚市場の一員として迎え入れられた。
詰所の窓から一部始終を見ていた年配の漁師たちが、ごしごしと無骨な指で目元を拭っている。
「……なんて健気な子なんだ……」
「……あんな小さな体で、たった一人で海を渡ってきなすった……」
「……俺たちが守ってやらんと……!」
私の打算は、彼らのあまりにも純粋な情の前では、無意味だった。
そうして、サンタ・ルチア魚市場の守るべき小さな宝物、兼、とても有能な経理事務員という、奇妙な椅子が一つ、私のために用意された。
本日はこれまでにて!~かぐや~




