第145話:『偽りの海燕(シー・スワロー)と、追跡者たちの誓い』
マリアの奇跡が残した淡い光の粒子が、空気の中に溶けるように消え去る。すると、宿の一室は再び蝋燭の揺れる薄闇に沈んだ。湿った木の匂いと、窓の外から聞こえる遠い港の喧騒が、じわりと現実に戻ってくる。
傷の痛みが嘘のように消え去ったゲッコーとクラウスは、礼の言葉が見つけられず、ただ深く、マリアに頭を垂れた。言葉はなくとも、その硬く引き結ばれた唇と、伏せられた目に宿る光が、その敬意を物語っていた。
「――それで? 何か分かったの?」
マリアが問う。
お忍び用の地味な町娘のドレスも、彼女が纏うとまるで絹の礼服のように見える。その佇まいから滲み出る気品は、この薄汚れた部屋の空気を張り詰めさせていた。
彼女の中には、一つの確信があった。
(リナの奇蹟……。それを知り、これほど大胆に動くのは『シャングリラ聖王国』の急進派しかいない。あの者たちは、癒やしの力を持つ『聖者』を神格化し、政治の駒としてきたのだから……!)
だが、その自信に満ちた推測は、目の前の男の報告によって脆くも崩れ去る。
部屋の隅、影に溶け込むように控えていたマリア直属の情報員が、深く頭を垂れた。
「……申し訳ございません、マリア様。……聖王国の関係者に、それらしき動きは一切見られません。彼らも、『ここ、ヴェネーリアで拉致された少女』の話にひどく困惑しているようで……」
「……なんですって?」
完璧に整えられていたマリアの表情が、わずかに歪む。
私の読みが、まちがっていた?
(『シャングリラ聖王国』ではない? では、一体誰が……? ヴェネーリアの既得権益派? いいえ、彼らのやり口はもっと陰湿で、直接的ではない……!)
鉛のように重い沈黙を破ったのは、息を切らせて部屋に転がり込んできたレオだった。
木の扉が壁に叩きつけられるけたたましい音と共に現れた彼の手には、一枚の羊皮紙が握りしめられている。港湾局の小役人を半ば脅し、半ば金で懐柔して手に入れた、リナが失踪した夜から翌朝にかけての出港船の全リストだった。
「……この中で、最も怪しいのは、この船だ」
レオの震える指先が、インクの染みも生々しい羊皮紙の一点を、まるで突き刺すように力強く指し示した。
「船名、『海燕』。船籍は、『シャングリラ聖王国』。出港日も一致する」
「やはり聖王国では……!」
マリアが声を上げた、その瞬間。
「……いや、違うんだ……!」
レオが、絞り出すような声でそれを否定した。自らの過ちを告白する罪悪感に顔は蒼白になり、唇を強く噛みしめる。
「本当の船主は聖王国じゃない……! 『アルビオン連合王国』のデニウス・ラウルという男だ……。俺が、俺がリナに紹介してしまった……! 聖王国の船籍は偽装だったんだ……!」
「アルビオン……!?」
遥か東の海の向こう、伝説のように語られる国の名に、マリアもライナーも、そしてそれまで黙っていたセラの目さえも、鋭く見開かれた。
バラバラだった点と点が繋がり、最悪の絵図が完成していく。息の詰まるような感覚が、その場にいる全員を支配した。
「……最悪だわ」
マリアの唇から、凍てつくような呟きが漏れる。相手は既知の敵ではない。得体の知れない大国。そしてリナは今、その海の向こうへと連れ去られようとしている。
レオが目の前のただならぬ男女に警戒の視線を向ける中、マリアは仲間たちへと向き直った。
その蒼い瞳から、先程までの迷いは消え失せている。代わりに宿るのは、新たな、そしてより困難な戦いへの決意の炎。
「船は手配できますか。我々も追うわよ」
その問いに、セラが静かに、しかし力強く頷いた。
「手配済みです。ロッシ中将閣下のご厚意で、帝国の最新鋭高速船を一隻。明朝には入港いたします。港ではマルコ・ポラーニ殿の紹介状が効きましょう」
「行き先は、『聖王都、蓮華』」マリアは即座に続ける。「補給と情報交換のために、必ず寄るはずです」
そして彼女は、初めてレオの目を真正面から見据えた。
「レオさんと言いましたね。あなたはここに残り、情報収集をお願いできるかしら」
「……この人たちは……?」
戸惑うレオの横から、ゲッコーがぶっきらぼうに、だがどこか慰めるように言った。
「気にするな。リナ様を救うために集まった、頼りになる人達だ。連絡役は後で紹介する」
彼らの思考は、既に次の一手へと飛んでいた。
「いいこと? これは、もはやただの誘拐事件ではないわ」
マリアは静かに、しかし部屋の空気を震わせるほどの覇気を込めて宣言した。
「――国家間の戦争よ。そして、勝つのは私たち」
その不敵な言葉に、皆、ただ黙って力強く頷き返す。
彼女の言葉に応えるように、窓から吹き込んだ突風が蝋燭の炎を激しく揺らした。壁に映る彼らの影が大きく蠢き、まるで決意を新たにした巨人のように見える。
夜の港から届く強い潮風は、紛れもなく、新たな追跡の始まりを告げる咆哮だった。




