第138話:『砕かれた平穏、誓いの炎』
丘の上のカフェでの再会は、まるで陽炎のように遠い夢だった。
レオの記憶にいる妹は、泣き虫で、いつも兄の後ろをちょこちょことついて回る小さな影。その面影を残しながらも、目の前の少女は時折、すべてを見透かすような静かな瞳で遠くを見つめる。
(……大きくなったな、リナ。いつの間にか、俺の方がお前に守られているみたいだ)
胸に込み上げる誇らしさと寂しさ。その入り混じった想いを、彼はまだ言葉にできずにいた。
◇◆◇
運命の日の夕刻。
湾岸地区の祭りの喧騒が、レオの心をわずかに解きほぐす。綿菓子のように甘い匂いが夜風に乗り、色とりどりの屋台の灯りが人々の顔を照らしていた。陽気な楽団の音楽に合わせ、見知らぬ者同士が手を取り合って踊る。
トムとアンナは目を輝かせ、光の洪水の中を蝶のように駆け回り、カリンが呆れたように、けれど優しい笑みでその後を追いかける。
レオはデニウスの隣で、その平和な光景に目を細めた。
(……そうだ。こういう何気ない日常こそが、宝物なんだ)
自分がこのポルト・アウレオでがむしゃらに働いてきたのは、いつか孤児院のみんなに、こんな温かい景色を見せてやりたかったからだ。
──だが、その平穏は次の瞬間。
鉄が軋む轟音と悲鳴によって、ガラス細工のように粉々に砕け散った。
ゴオオオオオッ!
港の倉庫地区から、巨大な黒煙が螺旋を描いて天を衝く。間髪入れず、腹の底を揺さぶる断続的な爆発音が、夕暮れの空気を無慈悲に引き裂いた。
一瞬の静寂。そして、街は沸騰した。
悲鳴が波のように押し寄せ、人々が我先にと逃げ惑う。光と音楽に満ちていた広場は、一瞬でパニックの坩堝と化した。
「トム! アンナ!」
レオは絶叫し、人波に呑まれそうな二人の小さな体を、骨が軋むほど強く抱きしめた。
「カリンさん! こっちだ!」
必死に三人の盾となり、押し寄せる群衆の濁流に耐える。
その混乱の渦中で、いつの間にか隣にいたはずのデニウスの姿が掻き消えていた。レオの思考が恐怖で白く染まりかけた、その時。
「──こちらです!」
数人の黒い影が音もなく現れ、彼らの周囲に人の壁を作り、安全な路地裏へと導いた。ゲッコーの部下たちだった。
◇◆◇
宿屋の一室は、薬草と血、そして絶望の匂いに満たされていた。
レオの網膜には、あまりにも残酷な光景だけが焼き付いている。
破壊されたカフェのテラス。飛び散った鮮血の赤。
そして、そこにいるはずの愛しい妹の姿が、どこにもないという現実。
(……俺は、また、守れなかった……)
鉛のような後悔が、心臓を鷲掴みにする。
孤児院にいた頃と同じだ。年長者のくせに、結局いつも、あの子の異常なまでの聡明さに助けられてばかりだった。何も変わっていない。自分はあの頃から一歩も前に進めてなどいない。
ただの無力な「兄」として、また、妹を失った。
自責の念に打ちひしがれる彼の隣で、ゲッコーは激痛に顔を歪ませながらも、氷のように冷静な声で指示を飛ばしていた。
「港の全船舶の出港記録を洗え。それと、どんな些細な情報でもいい、街のチンピラ共に金を掴ませてでも情報を集めろ。この騒ぎは陽動だ。情報が操作されている前提で動け。……裏で糸を引いている奴がいる。必ず突き止めろ」
彼は『囁きの小箱』を手に取り、後方のセラへ淡々と、しかし正確に状況を報告する。
「──リナ様、敵性組織に拉致された可能性大。主犯は巨躯の手練れを含む五人組……俺が後れを取った。不甲斐ない」
その声に、プロフェッショナルとしてのわずかな悔恨が滲む。
「……敵は組織的だ。船を使った国外逃亡が最も濃厚だが、陸路も封鎖させる。だが、俺は万全の動きが厳しい。……クラウス殿の応援を要請したい。聖女マリア殿に連絡を取り、彼をこちらへ派遣していただくよう取り計らっていただきたい」
その姿に、レオは雷に打たれたように顔を上げた。
(……この男、「保父さん」なんかじゃない……!)
彼は戦っている。俺がこうして膝を抱えている間も、彼はリナを取り戻すために、血を流しながら戦っている。リナが見せてくれたあの治癒の力。この人たちは、きっとそういうことなんだ。俺の知らない、リナの本当の世界の人間なんだ。
もう、ただ後悔しているだけの無力な兄ではいられない。
レオは、震える脚に力を込めて立ち上がると、ゲッコーの前に進み出た。その瞳から、先ほどまでの絶望の色は消え失せている。
「……ゲッコー殿」
「……何だ」
「……俺も戦う。……剣じゃない。俺の武器でだ」
ゲッコーの鋭い目が、初めてレオを単なる保護対象ではない、一人の男として見つめ返した。
「このポルト・アウレオは俺の庭だ。どんな小さな噂も、金の流れも、俺の目と耳から逃れられはしない。……犯人を見つけ出す手伝いを、させてくれ」
その瞳には、この街で叩き上げで生きてきた商人としての矜持と、覚悟の炎が燃え盛っていた。
ゲッコーは何も言わず、ただ静かに、力強く頷いた。




