第137話:『狂戦士の咆哮と、忠誠の盾』
ゴオオオオオッ!
港の方角から、巨大な黒煙が螺旋を描きながら立ち上った。
間を置かず、断続的な爆発音が腹の底に響き、夕暮れの空気を無慈悲に引き裂く。
一瞬の静寂の後、街は沸騰した。悲鳴が波のように押し寄せ、人々が我先にと逃げ惑う喧騒が、私たちがいた茶店のテラスまで響いてくる。
「……!」
隣で茶を啜っていたゲッコーが、音もなく立ち上がる。その横顔は凪いだ湖面のようだったが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。彼は背後に控える二人の『影の部隊』へ、短く、しかし鋼のように鋭い声で命じる。
「他の隊員に伝えろ! カリン殿と子供たちを最優先で保護しろ! 実力行使も許可する! ……お前たちはすぐにここに戻れ!」
「はっ!」
二つの影が頷くと同時に人混みの中へ溶け込み、瞬く間に見えなくなった。
テラスに残されたのは、私とゲッコー、ただ二人。張り詰めた沈黙が肌を刺す。
まさに、その時だった。
私たちの眼前に、ぬらりと五つの影が立ち塞がった。
先頭に立つのは、岩のような巨躯を持つ狂戦士バルドル。その瞳には、獲物を前にした獣の光だけがギラついている。
「……リナ様。……お下がりください」
その声が合図だった。
バルドルが獣の咆哮を上げ、巨大な戦斧を振りかぶる。それはもはや武器というより、一つの破壊現象だった。轟音と共に振り下ろされた一撃が、テラスの石畳を粉々に砕き、衝撃波が私の髪を激しく揺らす。
ゲッコーはそれを紙一重で躱し、砕けた石片が舞う中を、流星のように駆けた。彼の双剣が銀の閃光を描き、バルドルの巨躯に襲い掛かる。
キィン!と甲高い音が響き渡り、闇に火花が咲いては消える。
戻ってきた二人の『影』も、残る四人の刺客と斬り結び、そこかしこで剣戟の音が鳴り響いた。だが、多勢に無勢。何より、ゲッコーとバルドルの間には、絶望的なまでの力の差があった。
ゲッコーの剣技は、水が流れるように洗練され、美しい。双剣は舞うように敵の攻撃を受け流し、隙を突いて鋭い切っ先を突き立てる。しかし、バルドルの戦斧は、そのすべてを圧倒的な質量と暴力でねじ伏せた。一撃受け止めるたびに、ゲッコーの腕が痺れ、足元がよろめくのが見て取れた。彼の額には玉の汗が浮かび、呼吸が少しずつ乱れていく。
茶店のテーブルが薙ぎ払われ、木っ端微塵に砕け散る。椅子が悲鳴を上げて宙を舞い、壁に突き刺さった。
その混沌の中、敵の一人が守りをすり抜け、私へと牙を剥いた。
「リナ様!」
ゲッコーが叫び、私を庇おうと、ほんの一瞬、その意識を逸らした。
その刹那の隙を。
飢えた獣の眼光が、見逃すはずもなかった。
「――もらったァ!!」
バルドルの戦斧が、これまでとは比較にならない速度と重さでゲッコーに迫る。
ガギィィンッ!
耳を劈くような破壊音が響き渡った。ゲッコーの双剣が、まるで小枝のように弾き飛ばされ、闇の中へと消える。
がら空きになった胴へ、バルドルの軍靴が容赦なくめり込んだ。
鎧ごと内臓を砕くような鈍い音が響き、ゲッコーの口から苦悶の息が漏れる。彼の身体は「く」の字に折れ曲がり、店の壁に叩きつけられ、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「――さて。……終わりだ」
気づけば、二人の『影』も血だまりの中に伏している。
バルドルがゆっくりと、死神のように私へ近づいてくる。私は震える足で後ずさるしかできない。獣の眼光に射抜かれ、金縛りにあったように体が動かなかった。
彼が巨大な手を伸ばし、私の腕を掴む。抵抗する間もなく、その肩に軽々と担ぎ上げられた。
「――行くぞ」
仲間へ合図し、彼らは風のようにその場を去ろうとする。
揺れる視界の中、私は最後の力を振り絞った。倒れ伏すゲッコーたちに向かって、か細い祈りを紡ぐ。
「《――水の精よ、どうか、この者たちの傷を癒やし……》」
指先から、淡く温かい光が溢れ出した。
だが、無防備な腹に叩き込まれた肘鉄の衝撃が、私の祈りと意識を同時に刈り取った。光は弱々しく瞬き、霧散する。
(……ごめん……なさい……)
私の意識は、冷たい闇に沈んでいった。
しかし、その不完全な奇跡の残光は、ゲッコーたちの命をかろうじて繋ぎ止めることに成功していた。
◇◆◇
騒乱の余韻が残る路地裏で、デニウスはリナを担いだバルドルたちと合流した。そこへ、闇から滑り出るようにリゼットが現れる。彼女は倒れた『影』たちがいた方角を一瞥し、つまらなそうに唇を歪めた。
「意外と手間取ったのね」
「……帝国の『影』だろう。思ったより骨があった」
バルドルの呟きに、リゼットは冷たい視線をリナへ落とす。
「本当に、帝国の隠れた聖女なのかもしれないわね。……私が追跡の足を止め、情報を撹乱するから。あなたたちは早く船へ運びなさい」
そう言い残し、リゼットは再び街の闇へと消えていった。
◇◆◇
……やがて、残された『影』の一人が、ゲッコーたちを発見する。
「隊長! しっかりしてください!」
肩を揺さぶられ、ゲッコーは朦朧とする意識の中、脇腹の激痛に呻いた。だが、その声は驚くほど明瞭だった。
「……追跡……急げ……」
彼は的確な指示を飛ばすと、主君セラへと、絶望的な一文を刻んだ報せを送る。
だが、彼らの追跡はリゼットが撒いた偽情報に翻弄された。稼がれた貴重な時間の中、リナを乗せた船は、まんまと夜の海原へと滑り出していた。
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