第135話:『黄金の港に灯る、禁忌の輝き』
丘の上のカフェから流れてくる陽気な音楽が、まるで別世界のもののように遠ざかっていく。
私たちの目の前に横たわるのは、ただひたすらに残酷な現実だった。
坂道を下った先で、巨大な荷馬車が横転している。積み荷だったのだろう、砕けた木箱の破片と錆びた鉄屑が、石畳の上に無様に中身をぶちまけていた。遠巻きに集まった人々のざわめきが、潮風に乗って不気味に耳に届く。まだ、こちらの惨状には誰も気づいていない。
「――リナ! だめ、こっちに来て!」
カリンさんの悲鳴が鼓膜を突き破った。
その切羽詰まった声を振り切り、私は土を蹴る。もつれる足を叱咤し、石畳に倒れ伏す人影――レオ兄ちゃんの元へ駆け寄った。
砕けた額から流れるおびただしい血が、兄ちゃんの金色の髪を赤黒く染め上げている。肩で繰り返される呼吸は恐ろしく浅く、か細い。その温もりが、指の間から砂がこぼれるように失われていくのがわかった。
(どうしよう……このままじゃ、兄ちゃんが……!)
頭の中で警鐘が鳴り響く。
あの力を使えば、助けられるかもしれない。
でも、こんな場所で?
軍師としての私が囁くのだ。危険すぎると。正体が露見すれば、全てが破綻すると。
だが――。
目の前で消えかけている命は、大切な「お兄ちゃん」なのだ。
その命の灯火を前にして、打算も、計算も、未来への危惧も、すべてが消し飛んだ。
助けたい。
ただその一心だけが、凍りついた思考を溶かしていく。
(大丈夫……ここにいるのは孤児院の皆だけ。きっと、秘密にしてくれる……!)
震える自分にそう言い聞かせ、覚悟を決める。
子供たちが息をのむ気配を感じながら、私はゆっくりと膝をついた。
血で濡れるのも構わず、震える指先をレオ兄ちゃんの額にかざす。ひんやりとした肌の感触に、胸が締め付けられた。
私はそっと目を閉じ、あの日、宝物庫の片隅で見つけた失われた古代の言葉を、静かに紡ぎ始める。
凛とした、けれど祈るような囁きが、しんと静まり返った場に響いた。
「――《水の御霊よ。どうか、この尊き命の灯火が消えぬよう。その大なる癒やしの力で、お救いください》」
ふわり、と。
私の小さな手のひらから、温かく優しい青白い光が溢れ出す。
夏の夜の蛍火のように儚く、しかし力強い生命の輝き。光は無数の粒子となってレオの体を柔らかく包み込んでいく。
息をのむ気配。トムも、アンナも、そしてカリンさんも、信じられないものを見る目で私を見つめていた。
光に照らされ、血の流れがぴたりと止まる。ぱっくりと開いていた深い傷が、まるで見えない糸で縫い合わされるかのように、ゆっくりと塞がっていく。
浅く苦しげだった呼吸は次第に穏やかさを取り戻し、やがて深く、安らかな寝息に変わった。
そして、その瞼がゆっくりと持ち上がる。
◇◆◇
その信じがたい光景を、デニウス・ラウルは言葉もなく見つめていた。
宿泊するホテルの三階。磨き上げられた窓ガラス越しに、彼はすべての顛末を目撃していたのだ。常に余裕の笑みをたたえていたその顔から、表情というものが抜け落ちている。
暴走した馬車。その混乱の中で起きた、小さな、しかしありえない「奇跡」。
目の前の少女が、王国の『聖女』と同質、あるいはそれ以上の力を持つ――その揺るぎない事実が、彼の魂を根底から揺さぶった。
(……この少女……この力さえ、あれば……!)
彼の脳裏に、故国で病に伏せる少女の姿が浮かぶ。日に日に衰弱していく、儚い微笑み。
(この少女なら、きっと……イリアーヌを救える……!)
その瞳に、もはや打算ではない、狂信にも似た熱い光が宿った。
◇◆◇
騒ぎを聞きつけた街の衛兵たちが、坂を上がってくるのが見えた。
ゲッコーさんが「行くぞ」と鋭い視線で合図を送る。
私はまだ呆然としている皆に、小声で囁いた。
「お願い、今のことは絶対に内緒にしてね!」
私たちは人目を避け、その場を素早く立ち去った。
宿屋に戻るなり、質問の嵐に包まれる。
「リナ! 今のは一体、何なの!?」
「リナ姉ちゃん、魔法使いだったのか!?」
「うーん、昔おじいちゃんに習ったおまじないが、たまたま効いちゃったみたい」
私は曖昧に笑って誤魔化すと、真剣な顔で改めて皆に釘を刺した。
「でも、このことが知られたら、悪い人たちに攫われちゃうかもしれない。だから、絶対に、絶対に、誰にも言わないでね」
私の必死の訴えに、子供たちはこくこくと力強く頷いた。
◇◆◇
その夜。
ポルト・アウレオの港に隣接する、一軒の寂れた倉庫。
潮の香りが染みついた二階の一室で、三つの影が蝋燭の揺れる灯りの下に向き合っていた。
一人は、この計画の主導者デニウス・ラウル。
もう一人は、巨躯の狂戦士バルドル。
そして最後の一人は、街娘のような平凡な見た目に、蛇のように冷たい瞳を宿した女、リゼット。
「――見たぞ」
デニウスの声は、抑えきれない興奮に震えていた。
「本物だ。あのリナという少女は、間違いなく『本物』の癒やし手だ。王国の聖女なぞ、足元にも及ばん」
その熱を帯びた報告に、リゼットは興味なさそうに爪を磨きながら尋ねる。
「へぇ。それ、本当に見たの? 見間違いじゃなくて?」
半信半疑の態度に、デニウスは苛立ちを隠さず言い返した。
「この目ではっきりと見たと言っている! 瀕死の男があっというまに癒える様をな!」
「ふーん。まあ、あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」
リゼットは肩をすくめる。「それで? その『金の卵』をどうするの? 攫って故郷にお持ち帰りでもするわけ?」
「その通りだ」
デニウスはきっぱりと告げた。
「明日、我々はあの少女を確保する。そして船でこの国を発つ。バルドル、部下を集めいつでも動けるように準備しておけ。リゼット、明日の朝までにあの少女の周辺と護衛の実態を洗い直せ。油断はするな」
冷徹な指示に、バルドルは獰猛な笑みを浮かべる。
「おう。まぁ、孤児たちが相手じゃな。文字通り赤子の手をひねるようなもんだろ」
リゼットは立ち上がると、ふぁ、と大きなあくびをした。
「はいはい、了解。まあ、本当にそんなお宝が転がってるなら面白そうだしね。きっちり調べておいてあげるわよ」
そう言い残すと、彼女は猫のようにしなやかに闇の中へと消えていった。
デニウスは窓の外、暗い海を見つめる。
その向こうにある故郷と、そこで待つ病床の少女を思い浮かべながら。
(待っていろ、イリアーヌ……。必ず、お前の元へ希望を届けてみせる……!)
黄金の港に、今、非情な罠が張り巡らされようとしていた。
だが、彼らはまだ知らない。
自分たちが狩ろうとしている獲物が、ただの金の卵ではなく、帝国という巨大な獅子が守る、大切な雛であることを。




