第129話:『影の受難と、保父の誕生』
【ゲッコー視点:帝都観光、その朝】
帝都観光、最終日の朝。
窓から差し込む光が眩しいほどの、抜けるような青空だった。だがゲッコーの心象風景は、その空とは裏腹に、分厚い暗雲に閉ざされていた。
「……ゲッコーさん。今日は一日、あの子たちのわがままに付き合ってあげてくださいね」
主君リナからの、あまりに過酷な命令。
その隣ではアガサ院長とシスター・カリンが、「まあまあ、私たちもおりますから」と慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。だがゲッコーには分かっていた。子供という生き物は、優しく話の分かる大人より、無口で何を考えているか分からない大人にこそ懐くという、非情な性質を持つことを。
彼の予感は、悲しいほどに的中した。
「……御意に」
無口な彼が鋼の意志でそう応えた瞬間。
彼の両腕は、トムとアンナによって戦利品のようにがっしりと掴まれた。
「やったー! ゲッコーおじちゃんとお出かけだ!」
「おじちゃん、おっきいから肩車してくれる!?」
まるで巨木に群がる小動物だ。子供たちは彼の腕や足にしがみつき、賑やかな歓声の波の中へと引きずり込んでいく。その後ろを「あらあら、うふふ」と楽しげな声でついていくアガサ院長たち。
それが、彼の長く、過酷な一日の幕開けだった。
◇◆◇
まず彼らが向かったのは、活気に満ちた帝都の中央市場。
ゲッコーの任務は、子供たちの安全な引率。だがその任務は、開始わずか五分で崩壊した。
「わーい! 飴細工だ!」
「あっちで猿が芸をしてるぞ!」
「待ってよー!」
焼き栗の香ばしい匂い、呼び込みの威勢のいい声、陽気な辻音楽師の笛の音。子供たちの好奇心は、あらゆるものに引火していく。アガサ院長とカリンが必死にまとめようとする網の目を、彼らは魚のようにすり抜けて散っていく。
ゲッコーはその予測不能な動きに完全に翻弄されていた。
(……ダメだ。統率が取れていない。これは……カオスだ)
額にじわりと冷や汗が滲む。彼は長い腕を伸ばし、逃げ出す子供の襟首を子猫でもつまむように軽々と捕まえては、アガサ院長の元へ連れ戻す作業を繰り返すしかなかった。
次に彼らが向かったのは動物園。
ここでゲッコーは、人生最大の屈辱を味わうことになる。
ポニーの乗馬コーナーで、アンナが突然その場にしゃがみこみ、大きな瞳から涙をこぼしたのだ。
「うわーん! あの、お馬さんに乗りたいー!」
カリンが「アンナ、一人で乗れるかしら?」と優しく諭すが、アンナは首をぶんぶんと横に振る。
「やだー! おじちゃんと一緒じゃないとやだー!」
その小さな指の先は、まっすぐにゲッコーを捉えていた。
周囲の親子連れから注がれる、微笑ましい視線が痛い。アガサ院長が「まあまあ」と困ったように笑っている。
(……どうする……? 任務、失敗か……?)
追い詰められた彼が取った行動は、予測の斜め上をいくものだった。
「――ひひーん」
低く、しかし妙に響きの良い声を発し、彼はその場に四つん這いになった。そして、広い背中にアンナを乗せてゆっくりと歩き始めたのだ。
「わーい! お馬さんだー! パッカ、パッカ!」
アンナは大喜びで彼の背中を軽く叩く。
ゲッコーのポーカーフェイスは一切崩れない。だが、その耳だけが真っ赤に染まっていた。
その一部始終を物陰から見ていた別の『影の部隊』の隊員が、腹を抱えて震えていたことを、彼はまだ知らない。
◇◆◇
長い一日が終わり、街が茜色に染まる頃。
ゲッコーは遊び疲れて眠ってしまった子供たちを、一人、また一人と宿屋のベッドへと運び込んでいた。その武骨な手つきは驚くほど優しく、壊れ物を扱うようにそっと布団を掛けていく。
全ての子供たちが穏やかな寝息を立て始めた後。
彼は一人、静かに窓の外の月を見ていた。
今日一日の出来事が、頭の中を駆け巡る。それは彼が生きてきた血と鉄の匂いがする世界とは全く違う、温かく、騒がしく、そして不思議と胸を締め付ける世界だった。
「……ゲッコーさん」
いつの間にか、リナが音もなく隣に立っていた。彼女は温かいミルクの入ったカップをそっと差し出す。
「今日はありがとうございました。……大変だったでしょう?」
ゲッコーは無言でカップを受け取った。湯気が夜気と混じり合い、ふわりと消える。
そして彼は、初めてリナの前で任務以外の言葉を口にした。
「……いえ」
夜空を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「……悪く……なかった」
その不器用な一言に、リナはくすりと笑みをこぼした。そして彼女は、悪戯っぽく片目をつむいでみせる。
「よかったです。練習になりましたね?」
「……?」
ゲッコーが怪訝な顔でリナを見た。
「明日から始まるヴェネーリアへの旅。トムとアンナのお世話役……つまり、保父さん役はゲッコーさんにお願いしようと思っていましたから」
あまりに無慈悲な宣告。
常に鋼の仮面のようだった彼の表情が、ぴしり、と微かに音を立てて凍りついたのを、リナは見逃さなかった。彼は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言えず、ただ一言、絞り出す。
「…………御意に」
プロフェッショナルの仮面の下に隠された、一人の男の優しい素顔。
それを垣間見たリナは、これから始まる旅がますます楽しみになった。
無口で強面で、そして誰よりも子供の扱いに慣れてしまった(であろう)最強の保父さんと、一緒なのだから。




