第121話:『勝者の死角』
帝都の午後は、蜜のように甘く、穏やかな陽光に満ちていた。
グレイグ中将の執務室の隣に半ば強引に作らせた、私だけの小さな書斎。白磁のカップに注がれた紅茶の湯気が、窓から差し込む光の筋に溶けていく。
窓の外では、愛馬である鋼鉄の魔導馬『ブリッツ』が、整備兵の手で鏡のように磨き上げられていた。その黒光りする装甲が、午後の光を鈍く弾き返す。
(庭園でしか乗れないのは不満だけど……まあ、かっこいいから許す)
そんな微睡むような静寂を破り、テーブルの上の『囁きの小箱』が低い唸りをあげて震えた。穏やかな午後の空気を引き裂く不協和音。王国からのものだ。
やれやれ、と仮面の下で肩をすくめ、通信を受ける。傍らに控えるセラとヴォルフラムが、無言のまま視線を交わした。その目に宿るのは、新たな波乱の予感だ。
『――リナ、元気にしてるかしら? こっちはもう大変! まあ、おかげさまでロベール伯爵領の反乱は、問題なく収束できそうだけど!』
通信機から弾け飛んできたのは、勝利の昂揚と、硝煙の匂いが混じったようなマリアの声だった。彼女は堰を切ったように、先の戦の顛末を語り始める。その声は弾んでいた。
話を聞き終えた私は、仮面の下でかすかに口角を上げ、賞賛の言葉を送った。
「……さすがです、マリア様。正直、私は数ヶ月はかかると踏んでいました。『影の頭取』としての手腕、見事なものです。はまり役だとは思っていましたが、まさかここまでとは」
そして、あえて茶化すような口調で言葉を続けた。
「ただ、一つ誤算がありました。私はロベール伯爵領の民が、もっと長く戦火に苦しむと思っていたのです。状況によっては、彼らを新しい経済特区の労働力として受け入れることも考えていたのですが……あなたの迅速な勝利のおかげで、彼らはあまり苦しまずに済みそうですね。労働力の当てが外れてしまいました」
『あら、ごめんなさいね? 民を救うのが聖女の務めですもの』
マリアは心底楽しそうに笑う。その声に、私は満足げに頷いた。
会話の切れ間に、まるで茶葉を足すような気軽さで、私は核心を突いた。
「……それで、ヴェネーリアの傭兵組合長、ガスパロ・バルボはどうなりましたか?」
『……ああ、あの男なら。分が悪いと悟ったのか、すごすごと引き上げていったわ』
その答えに、私は一瞬黙り込む。
そして、残念そうに呟いた。
「――それは、もったいない……」
『……え?』
通信機の向こうで、マリアのまとう空気が変わった。
私は彼女と、この通信を共に聞いているであろうグラン宰相に向けて、静かに言葉を紡ぐ。
「ガスパロが今ヴェネーリアに戻ればどうなるか。ドナートからの責任を追及され、組合長の座を追われ、惨めに引退する。……せいぜいそんなところでしょう」
「戦があったのは二日前。ならば、まだ間に合います。……貰ってしまえばいいのです。彼を、その手勢ごと」
『…………!』
通信機の向こうで、鋭く息を呑む気配がした。勝利の熱に浮かされていた頭が、急速に冷えていくのが手に取るようにわかる。百点の戦果に満足し、その先に転がっていたはずの百五十点目の獲物を、完全に見逃していたことに気づいたのだ。
『……ありがとう、軍師様……』
次に聞こえたマリアの声から、先程までの勝ち誇った響きは綺麗に消え失せていた。そこにいるのは、新たな獲物を見出した狩人だった。
『相談して、よかったわ。(本当は自慢したかっただけなのに……一枚、上をいかれたわ……)』
「……マリア。詳しい手引きは不要ですよね?」
『――上等よ! そこまでヒントを貰えば間違えようがないわ! 今度こそ、百五十点の報告をしてあげる! 経済特区の話はグランに任せるわ、私はこれで!』
短い断言と共に、通信は一方的に切られた。その行動力に、私は思わず苦笑した。
「……リナ様」
傍らで息を詰めて聞いていたセラが、感嘆の声を漏らす。
「王国は、まだ大変そうですね」
「ええ。でも、あの調子なら大丈夫でしょう」
私はすっかり冷めてしまった紅茶を、静かに一口飲んだ。
帝都の書斎で放たれた私の一言が、また一つ、歴史の歯車を大きく回す。
平和な日常を望んでいる、ただそれだけなのに。
どうやら世界は、私がこのチェス盤から降りることを許してはくれないらしい。
窓の外では、磨き上げられた『ブリッツ』の装甲に、茜色に染まり始めた空が映り込んでいる。
私は冷え切った紅茶を飲み干すと、盤上に新たな駒を置くように、そっとカップをソーサーに戻した。




