第120話:『黒き疾風の独壇場』
風が乾いた土を巻き上げ、領主の紋章が刻まれた旗が力なく垂れ下がる。東のロベール伯爵領は、もはや生きた土地ではなかった。兵は去り、金は尽きた。広大な屋敷に残されたのは、僅かな私兵と、現実から目を逸らすように酒瓶を傾ける二人の老人だけだった。
ロベール伯爵とバルガス侯爵。彼らが埃っぽい広間で互いを罵り合っている頃、屋敷は静かにその機能を失っていた。
主だった家人たちは、いつの間にか誰一人いなくなっていた。聖女マリアの慈愛に満ちた「説得」と、イザベラの蜂蜜のように甘い「囁き」が、彼らの忠誠心を溶かしてしまった後だった。
屋敷を警備していた三百の私兵もまた、とうに牙を抜かれている。兵長はクラウスと密約を交わしていた。「手出しはしない。だが、捕縛に手を貸すこともできん。それが俺たちに残された最低限の仁義だ」と、苦々しく吐き捨てて。
夜の闇がすべてを覆い隠す頃、屋敷を取り囲む森に、無数の獣の目が光った。
夜逃げしたはずの傭兵、“狐”のゲルドとその一味だった。
「――よぉ。もうひと稼ぎさせてもらえるって聞いて来たんだが」
木陰からぬっと現れたクラウスに、ゲルドが獣のような笑みを向ける。
「相手は伯爵様と侯爵様、お二人の捕縛で間違いないかい?」
「ええ。ですが主任務は王都までの護送です」クラウスは温度のない声で答えた。「手柄はすべて、『黒曜の疾風』様のものとなりますが」
「ああ、そりゃそうだろうな。俺たちゃそこまで強欲じゃねぇ」
「かしら〜? 本当ですかい?」
部下の茶々に、ゲルドは腹を抱えて笑う。
「そういうことにしとけってんだ。わはははは!」
下品な笑い声が、夜の静寂に溶けていく。
まさにその時。
彼らの頭上、月光を浴びて銀色に輝く枝に、一つの影が音もなく舞い降りた。
漆黒の仮面。夜風に翻る黒いマント。
月を背負い、その男は高らかに名乗りを上げた。
「――闇あるところに光あり! 悪あるところに正義あり! 泣く子も黙る王国の守護神! 我こそは、『黒曜の疾風』!」
(……来た……)
クラウスとイザベラの間に、冷え冷えとした空気が漂った。
だが、傭兵たちの反応は、まるで違った。
「おおっ!」「かっけぇ!」「本物だ!」
その目は、伝説の英雄譚を聴く子供のように、キラキラと輝いている。
ハヤトは賞賛の視線を全身で浴びて満足げに頷くと、屋敷の正門へと向き直った。そして、肺一杯に息を吸い込み、雷鳴のように叫んだ。
「――悪党ども! 神妙にお縄をちょうだいしろぉぉぉっ!」
次の瞬間、轟音が夜を切り裂いた。
ドッコォォン!
頑丈なオーク材の正門が、まるで内側に向かって爆散したかのように吹き飛んだ。衝撃が周囲の木々を揺らし、傭兵たちが思わず顔を庇う。
ただ、ハヤトは蹴り破っただけだ。
「な、何事だぁっ!?」
広間で酒を飲んでいたロベール伯爵が、濁った目を剥く。
その視線の先に、砕けた扉の向こうから黒い疾風が舞い込んだ。埃が舞う中、その姿はまるで死神のようだった。
「わ、わしに手を出してただで済むと思うておるのか……!」
伯爵が震える手で剣を抜こうとする。だが、その言葉は最後まで紡がれなかった。
ハヤトの姿が、掻き消えた。
否、人の目が追いきれない速度で踏み込んだのだ。床を蹴る音もなく、風を切る音だけが鼓膜を打つ。伯爵の視界が黒い影で塗りつぶされ、次の瞬間、首筋に走る硬質な衝撃に意識が刈り取られた。ぐらりと傾いだ体を、隣のバルガス侯爵が驚愕の目で見つめる。その侯爵に、ハヤトのもう一方の手刀が吸い込まれるように突き込まれ、声にならない呻きと共に、二人目の権力者は床に崩れ落ちた。
一瞬。まさに瞬き一つほどの時間で、全ては終わっていた。
静寂の中、ハヤトは腰の『囁きの小箱』を取り出すと、わざとらしく咳払いをして報告を入れた。
「――こちら、『黒曜の疾風』! 悪の根源二名、完全に制圧した! 我が剣の前に敵はなし!」
そして、最後に剣を鞘に納めるような仕草で、完璧な残心のポーズを決めた。
『――やったわね、疾風! さすがだわ! 連れて帰ってきたら勲章ものよ! ヒューヒュー!』
通信の向こうから、マリアのやけにテンションの高い声が響き渡った。
◇◆◇
その報告は、すぐに王宮のアルフォンスとグランの元にも届けられた。
二人はあまりに芝居がかった報告内容に顔を見合わせ、揃って深いため息をついた。
(……まあ、結果としては、良かったのか……?)
アルフォンスがグランに目で問いかける。
(ええ。功績は本物です。十分にねぎらって差し上げませんと、後が面倒……いえ、士気に関わりますから)
グランが静かに頷き返した。
アルフォンスは、宰相に対して王として正式な指示を下す。
「グラン。この度の件、広く民に知らせよ。『黒曜の疾風』の英雄譚として吟遊詩人たちに歌わせるのだ。そして国王として公式に『黒曜の疾風』を王国の守護者と認め、勲章を授与すると布告せよ。盛大な凱旋式も準備するように」
それは、この新しいヒーローを国の象徴として最大限に利用するという、若き王の冷徹な判断だった。
(……少しやりすぎなくらいが、ちょうど良いのかもしれん。あの英雄殿にはな)
アルフォンスは、常人には扱いきれぬ駒の正しい使い方を、早くも学び始めていた。




