第119話:『黒き疾風と、傭兵の雪崩』
ロベール伯爵領の司令部は、怒声と酒の匂いが入り混じり、床に散乱した地図を踏みつける音だけが虚しく響いていた。金と兵士が一夜にして霧散したのだ。悪夢のような現実に、伯爵と侯爵は互いの襟首を掴まんばかりに罵り合っている。
「貴様の甘言に乗ったのが間違いだったわ!」
血走った目で伯爵が吼える。
「何を言うか! 全ては貴殿の人望のなさ故であろうが!」
侯爵も顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
その醜い仲間割れを、冷え切った爬虫類の目で見下ろす男がいた。ヴェネーリアから急遽派遣された傭兵組合長、ガスパロ・バルボ。磨かれた革鎧に身を包んだ彼は、指一本動かさない。ただ、失敗した商品をどう清算するか、それだけを値踏みするような目で二人を眺めている。
「――ドナート様は、お怒りだ」
ガスパロの地を這うような低い声が響くと、二人の罵声がぴたりと止んだ。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「これ以上無様な真似を続けるなら支援は完全に打ち切る、と。……そして、お貸しした金は利子をつけて即刻返済してもらうそうだ」
その最後通牒に、二人の顔から血の気が引いていく。
追い詰められた彼らが選んだのは、最も愚かで、唯一残された道だった。
「……総攻撃だ」
ロベール伯爵が、喉から絞り出すように言った。
「残った兵力を全て投入し、帝国領へ攻め込む! それしかない!」
◇◆◇
その自滅的な動きは、すぐに王都のマリアの耳に届いた。『囁きの小箱』の冷たい感触を指でなぞりながら、彼女は楽しげに唇の端を吊り上げる。通信の相手は、国境で暇を持て余しているであろう、あの黒い英雄。
「――出番よ、『黒曜の疾風』」
マリアの声は、上質な絹のように滑らかで、隠しきれない愉悦に濡れていた。
「ただし、傭兵たちには決して手を出さないで。あなたはただ、そこに“いる”だけでいいわ」
『はあ? どういうことだよ、そりゃ?』
小箱から、面倒くさそうに舌打ちする音が混じった声が返ってくる。
「ふふっ。あなたはただそこに居るだけで、国に勝利をもたらすことができる、それだけの存在になった、というだけの事よ。あなたを最高に格好良く見せる、最高の舞台を用意してあげたのだから、きっちり決めて見せてよね」
◇◆◇
翌日。乾いた風が吹き抜ける荒野を、反乱軍の残党およそ三千が、まるで葬列のように進んでいた。兵士たちの顔に覇気はなく、ただ死地へと歩を進める罪人のようだ。
だが、その進軍路の丘の上に、それは現れた。
たった一人。
風に黒いマントが獣のように唸り、逆光に浮かぶシルエットは死神そのものだった。腕を組み、泰然とこちらを見下ろす仮面の騎士。『黒曜の疾風』。
その姿を認めた瞬間、傭兵たちの間に戦慄が走った。先頭付近の馬が怯えていななき、隊列の動きが明らかに鈍る。
脳裏に蘇るのは、悪夢だ。鋼鉄を紙のように切り裂く剣閃。人の域を超えた踏み込みから放たれる、災害としか呼べない剣の嵐。手心を加えられ命までは奪われなかったが、誇りも武器も、あの黒い嵐の前では塵芥に等しかった。自分たちでは絶対に敵わない、理不尽な「力」の象徴。
誰もが歩みを止め、一歩も前に進もうとしない。
「――進めぇッ! なぜ進まん!」
後方からガスパロの金切り声が飛ぶ。
その言葉に呼応し、彼らの背後を固めていたロベール伯爵の私兵三百騎が一斉に弓を番えた。
ギリリ、と弓が引き絞られる不快な音が響き渡る。鈍く光る矢じりは、間違いなく味方であるはずの傭兵たちの背中に向けられていた。
「進まぬ者は後ろから射殺す! これは命令だ!」
非情な督戦。傭兵たちの顔に、深い絶望の色が浮かんだ。
前には死神。後ろには裏切り者。進むも地獄、退くも地獄。
その極限の状況下、彼らの耳に、まるで天からの福音のような囁きが届き始めた。それは、いつの間にか隊列に紛れ込んでいた『影の部隊』員たちが放った、最後の蜘蛛の糸。
「……おい、聞いたか? あの黒い騎士、俺たちを攻撃する気はないらしい……」
「……それどころか、このまま前に進めば、慈悲深き聖女マリア様が我々を保護してくださるそうだ……!」
「……後ろで犬死にするか、前進して聖女様に救われるか……」
その囁きは、乾いた土に染み込む水のように、静かに、しかし確実に傭兵たちの間に広がっていく。
まず『影の部隊』員たちが、意を決したようにゆっくりと歩を進めた。
それにつられるように一人、また一人。
やがてその緩慢な動きは、我先にと前へ向かう、大きなうねりへと変わっていった。
その光景を後方から見ていたロベール伯爵とガスパロは、下卑た笑みを交わす。
「かーっかっかっか! 見ろガスパロ殿! 恐怖は勇気に勝る、ということだな!」
「ええ。これでヤケクソになって突撃するでしょう。あの黒い騎士も終わりですな!」
彼らの目には、恐怖に駆られた傭兵たちが、死兵となって黒い騎士へ突撃していくようにしか見えていなかった。
だが、直後に展開された光景は、彼らの理解を完全に超えた。
「「「うおおおおおおおおおおっ!!!」」」
傭兵たちが雄叫びを上げた。しかしそれは、もはや戦闘の鬨の声ではない。生きるための場所を求める、避難民の絶叫だった。
彼らは『影の部隊』に導かれ、丘の上の黒い騎士に目もくれず、その脇をすり抜けるようにして、ひたすらに王都方向へと向かって全力で疾走していく。
丘の上で仁王立ちしていたハヤトは、ただ眉をひそめ、その奇妙な光景を眺めている。手を出すでもなく、声を上げるでもなく。まるで、自らの横を猛スピードで流れていく濁流を見送る案山子のように。
「…………は?」
ロベール伯爵の口から、間の抜けた声が漏れた。
「……な、何が……? 何をしておるのだ、あやつらは! 倒さんか! 敵を目の前にしてなぜ素通りする!」
彼の絶叫も虚しく、傭兵たちの雪崩はもう止まらない。彼らは一人、また一人と丘の向こう側へと消えていく。
やがて砂塵が収まった時、ガスパロと伯爵たちの前には、誰一人傭兵は残っていなかった。ただ、弓を番えたまま茫然と立ち尽くす、哀れな私兵三百騎が残されているだけ。
反乱の継続は、不可能となった。
一滴の血も流れず、聖女の囁きと英雄の威圧だけで。




