第117話:『聖女の囁きと、偽りの帳簿』
東部、ロベール伯爵領に近い森の奥深く。獣道に紛れて潜む『影の部隊』の仮設拠点。オイルランプの頼りない光が揺れる薄暗い天幕の中、クラウスは耳に当てた『囁きの小箱』から流れ込む、悪魔のコンチェルトに静かに耳を澄ませていた。
『――いいこと、クラウス? 今回の相手は金に汚いだけの小役人。……イザベラ、あなたの出番よ』
通信機の向こうから響くのは、聖女マリアの蜂蜜のように甘く、それでいて氷のように冷たい声。
『思う存分、その美貌と話術であの豚を転がしてきてちょうだい。骨の髄までしゃぶり尽くすつもりでね』
『御意に、聖女様』
クラウスの隣で、イザベラの唇がゆったりと弧を描く。その深紅の唇からこぼれた声は、獲物を見つけた蛇のように艶めかしく、天幕の湿った空気を震わせた。
あまりに手慣れた指示に、共に通信を聞いていたアルフォンスとグランの喉が、ごくりと鳴る。彼らの顔には一瞬、戸惑いの影が差したが、すぐに覚悟の色に変わった。もう、分かっている。綺麗事だけでは、この国は救えない。
◇◆◇
翌日の午後。
ロベール伯爵領の徴税事務所は、澱んだ空気とインクの匂いで満ちていた。主である徴税官は、汗で張り付いたシャツ越しにも分かるほど腹の出た、典型的な俗物だった。分厚い帳簿をめくる指も退屈そうで、噛み殺したあくびが脂汗の浮いた額を揺らす。
その時だった。控えめなノックの音と共に扉が開き、まるで薄汚れた部屋に光が差し込んだかのように、一人の女が舞い込んできた。
「――ごきげんよう。少しお話を伺ってもよろしいかしら?」
旅の歌姫を装ったイザベラだった。異国の踊り子のような、豊満な身体の線を惜しげもなく晒すドレスを纏い、歩くたびに微かな花の香りが鼻をくすぐる。
徴税官の濁った目が、一瞬にして剥き出しの欲望に染まった。
そこから先は、まさに蜘蛛が蝶を絡めとる時間だった。
イザベラは、男が好みそうな世間話を巧みに振りながら、その言葉の端々に甘い吐息を混ぜる。グラスを渡すふりをして、偶然を装い指先が触れ合う。その度に、男の背筋にぞくりとした快感が走った。
完全に理性の箍が外れた徴税官は、己の不正の数々を、まるで武勇伝のように語り始めた。上質な葡萄酒に酔い、女の美貌に酔い、己の才覚に酔いしれていた。
彼がグラスを呷り、油断しきった喉を晒した、その瞬間。
音も気配もなく、部屋の影が濃くなった。いつの間にか徴税官の背後に立っていたクラウスが、その首筋に抜き身の短剣を突きつける。ひやりとした鋼の感触が、男の酔いを一瞬で吹き飛ばした。
「――面白い話を聞かせてもらった」
クラウスの声は、冬の湖面のように静かで、感情がなかった。彼は徴税官が自慢げに語った不正の手口を、日付や金額に至るまで一言一句違わずに暗唱してみせる。
徴税官の顔から血の気が引いていく。
クラウスは短剣を引くと、代わりに数枚の金貨をテーブルに滑らせた。カチャリ、という硬質な音が、男の心臓を鷲掴みにする。
「聖女マリア様からのお言葉だ。『伯爵への税収報告を、実際よりも低く報告しろ』。さすれば、その差額はお前のものになる。もちろん、我々も少しはいただくがな」
「……も、もし、断れば……」
震える声で絞り出す男に、クラウスは氷の視線を向けた。
「お前がこれまで蓄財してきた不正の証拠が、どこからか伯爵の耳に入るやもしれんぞ?」
甘く輝く金貨と、首筋に残る死の感触。
天国と地獄を同時に見せられた徴税官は、しばらく虚空を見つめていたが、やがて獣のようにその金貨を掴み取った。
◇◆◇
数日後、ロベール伯爵の執務室。
「も、申し訳ございません! 凶作続きで民は疲弊しきっており、もはやこれ以上は……!」
徴税官が震える手で差し出した帳簿を、伯爵は床に叩きつけた。
「くそっ! 使えん奴らめ!」
側に立つバルガス侯爵も忌々しげに舌打ちをする。自分たちの足元、その財源が静かに崩され始めているとは夢にも思わず、ただ無能な部下を罵るだけだった。その愚かな姿を、天井の梁の影から、『影の部隊』の一人が冷ややかに見下ろしている。
そして、その裏側で。
『影の部隊』は慈善団体の職員に扮し、徴税官から巻き上げた金のその殆どを、伯爵領の貧しい村々へと還元していた。
痩せた子供にパンを、凍える老人に毛布を手渡しながら、彼らは囁く。
「――これは慈悲深き聖女マリア様からの施しです。伯爵様にはご内密に……」
涙を流して地に膝をつき、感謝する村人たち。
彼らの心に、「伯爵は我らから奪う悪」「聖女は我らに与える善」という、単純で、しかし何よりも強力な図式が、静かに、そして確実に刻み込まれていく。
マリアが撒いた毒は、甘い蜜の味がした。
それは反乱軍の心臓を直接狙うのではない。苦しむ村々を救うと同時に、反乱軍のその手足を、血肉を、大地を支える根を、内側からゆっくりと、だが確実に腐らせていくのだ。




