第115話:『プロジェクト始動と、商人たちの海へ』
皇帝陛下の追認を得たばかりのその場は、巨大な計画が動き出す直前の熱に満ちていた。私は、未だ頬を紅潮させ、興奮に目を輝かせているマルコに向き直り、静かに最後の釘を刺す。
「――では、マルコ殿」
凛とした声が響くと、彼の表情が引き締まった。
「この事業を進めるにあたり、あなたには正式に帝国へ籍を移していただきます。そして、計画の実現に必要と思われる信頼のおける人材には、あなたの判断で声をかけていただいて結構」
「……よろしいのですか?」
マルコの目が、信じられないものを見るかのように見開かれる。一介の商人に、帝国の未来を左右する計画の人選まで委ねるというのか。
「ええ。多少話が外部に漏れることは想定内。いえ、むしろ漏れた方が都合が良い」
私の唇が、仮面の下で微かな笑みの形を描く。その言葉に含まれた冷たい刃に、マルコははっと息を呑んだ。背筋をぞくりと冷たいものが駆け上る。
この若き軍師は、すでに盤上の数手先を読んでいる。
故郷ヴェネーリアに残る、耳聡く野心に飢えた商人たち。彼らがこの噂を耳にすればどうなるか。沈みゆく旧体制という船から、我先にと逃げ出す鼠のように、この新しい楽園へ雪崩を打って群がってくるだろう。
それは、血を一滴も流さぬまま、古い時代の心臓を止める、静かなる死刑宣告だ。
私はマルコから視線を外し、控えていた二人に鋭く指示を飛ばす。
「カイ殿。候補地の範囲の確定と用地の確保を直ちに開始してください。特区に関する法整備も急務です。あらゆる抜け道のない、盤石な礎を」
「マキナ。あなたには技術の確立と試作車両の準備を。最優先は、資材と人員を運ぶための頑丈な『蒸気トラック』です。新しい時代の道を切り拓く、力強い鉄の獣を」
「はっ!」「任せとけ!」
カイの緊張を帯びた声と、マキナの不敵な声が重なる。二人の瞳に宿る異なる色の炎を見て、私は満足げに頷いた。
プロジェクトの巨大な歯車が、ギシリと音を立てて回り始めた。
◇◆◇
その夜、私は皇帝陛下の私室に召されていた。宰相閣下も同席している。揺れる暖炉の炎が磨かれた調度品を照らし、上質な茶葉の香りが漂う。まるで穏やかな茶会の延長のような、和やかな空気。だが、銀の仮面をつけた私の存在だけが、その場に冷たい緊張感を持ち込んでいた。
「あの場では皆の士気を高めるため、全面承認の形をとった。だが、軍師よ。改めてそなたの具体的な算段を聞かせてもらえぬか」
皇帝の穏やかな声に応じ、私はマルコとの会談の最終報告と、カイとマキナへの指示内容を淀みなく説明した。一通り語り終えた後、私は静かに膝をつき、深く頭を垂れる。
「……それで、陛下。一つ、お願いがございます」
「申してみよ」
「もう少し様子を見させていただく必要がありますが、このプロジェクトの実務的な推進は、基本的には、カイ、マキナ、そしてマルコの三名に一任したく存じます。最終的な判断は宰相閣下に仰ぐ、という形で」
「ほう?」
皇帝が面白そうに眉を上げた。カップを置くカチャリという音が、やけに大きく響く。
「なぜだ? そなたが指揮を執るのではないのか」
「はい。走り出した計画は、もはや彼ら専門家の領域。私が口を挟む余地は少ないでしょう。……そして、この機に私は、しばらく帝都を離れようと考えております」
「何!?」
私の言葉が、穏やかな夜気を引き裂いた。皇帝の柔和な目が鋭く細められ、宰相の手がぴたりと止まる。部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「……今のヴェネーリアを、この目で見ておきたいのです」
私は顔を上げ、仮面越しに二人を真っ直ぐに見据えた。
「マルコという若き獅子が去った後、年老いたハイエナどもの巣がどうなっているのか。それを知らずして、この特区構想の真の成功はありえません」
「危険だ! そなた一人で行くなど、許さぬぞ!」
皇帝が身を乗り出して声を荒らげる。その声には、為政者としての懸念と、私個人を案じる響きが混じっていた。
「ご心配には及びません。その点、ヴェネーリアに詳しい聖女マリアにも相談済みです」
私は努めて落ち着いた声で、用意していた計画を披露する。
「彼女によれば、街の治安はまだ悪化していない、と。ただ、時代の風向きを読もうと誰もが浮足立っているだけ。それに、私一人では参りません」
私の提案に、室内は一瞬、静まり返った。
やがて、宰相がこめかみを押さえながら深く長い溜め息をつく。
「……軍師殿。それは、あまりに……大胆というか、その……」
言葉を探すように視線を彷徨わせる宰相とは裏腹に、隣に座す皇帝は愉快そうに喉を鳴らしていた。
計画の骨子はこうだ。
聖リリアン孤児院の卒業生である商人の引率で、年長の子供二人を連れた『社会見学』。護衛には保父に扮したゲッコーと院長先生。そして、街の至る所に潜ませた私の『蜘蛛の糸』。
「……子供の社会見学を、本気で怪しむ者などおりますまい?」
完璧な計画に、二人は深い深いため息をついた。強張っていた空気が、呆れと感心によってゆっくりと溶けていく。
「……分かった、分かった……」
皇帝が降参したように手をひらひらと振った。その目には、やれやれという色と、どこか楽しげな光が宿っている。
「では、十分に気をつけて行くのだぞ。旅程は宰相に、事前に伝えておくように。……それと、土産話を楽しみにしておる」
「はっ! ありがたき幸せに存じます」
望み通り、道は開かれた。
私は深く一礼し、静かに部屋を辞す。窓の外には満天の星。遠い海の向こう、金と欲望と謀略が渦巻く商人たちの海へと思いを馳せながら、私は新たな冒険への準備を始めた。




