第98話:『父の贖罪と、黒き疾風』
地響きにも似た大歓声が、バルコニーから帝都の空を揺るがしていた。
その祝祭の熱を背中で感じながら、老王レオナルドは誰にも気づかれぬよう、独り静かにその場を離れた。
彼の足が向かうのは栄光の玉座ではない。王宮の最も奥深く、忘れ去られた嘆きの塔。冷たい石で組まれたその塔は、高貴な罪人を幽閉するためだけの場所だ。
そこに、彼の長男――第一王子クロードが囚われている。
ひんやりとした空気が肌を刺す。
一段、また一段と螺旋階段を登るたび、響くのは己の足音と荒い息遣いだけ。その一歩一歩が、自らの罪を数え上げる苦行のように重く足に絡みつく。
脳裏に浮かんで消えるのは、亡き妻エリザの優しい微笑み。そして腐敗貴族の謀略に斃れた聡明な次男、エドワードの悲しみに濡れた瞳。
「……すまない、エリザ……。お前が愛したこの国を、私は守れなかった……」
「……エドワード……。この父は、お前の無念さえ晴らしてやれなかった……」
皺だらけの頬を、熱い涙が止めどなく伝う。
これまでの情けない自分への、今更な嘆きと謝罪。
やがて塔の頂、一番上の牢獄から、息子の錯乱した叫びが微かに聞こえ始めた。
「父上! 父上なのか! 助けてくれ! 私は騙されただけなんだ! あのバルガスどもに!」
レオナルドは護衛の兵を下がらせ、震える手で錆びついた鍵を錠に差し込んだ。軋む音を立てて重い扉が開く。
薄暗く黴臭い牢の奥、鉄格子に獣のようにしがみつく影があった。
「父上!」
レオナルドは静かに、だがはっきりと告げた。
「……すまない、クロード……。全て、この私が悪いのだ。お前を正しく導けなかった、私の罪だ」
そして彼は懐から抜き身の短剣を取り出す。震える手の中で冷たい光を放つその切っ先が、ゆっくりとクロードの胸に向けられていく。
「……安らかに眠れ。……なに、すぐにわしも逝く。あの世で、母上とエドワードに詫びようぞ……」
それは王としてではなく、ただ一人の父親としての、あまりにも歪んだ最後の贖罪だった。
もはや言葉はない。震える腕に力を込める。冷たい鋼が肉を裂く鈍い感触が、手に伝わる――
その、刹那。
――バァンッ!
背後の小窓が、轟音と共に爆ぜた。
月光を背負い、砕け散ったガラスの破片をダイヤモンドダストのように煌めかせながら、黒い人影が音もなく舞い降りる。それは嵐、あるいは凶鳥。
『黒曜の疾風』ハヤトだった。
「ちっ! 遅かったか!?」
レオナルドが何事かと振り向くより早く、影は踏み込んでいた。
視界の端を黒い鞘が閃く。
ガッ!と硬い衝撃が手首を穿ち、灼けるような痺れと共に短剣が宙を舞った。
キンッ!と甲高い金属音を立てて石畳に転がる刃が、クロードの血を濡らしながら、虚しく月光を反射する。
「……何をする……!」
絞り出した老王の声は、影の動きにかき消された。
抵抗しようと振り向いた視界が、一瞬にして暗転する。首筋に走ったのは、痛みというよりは雷に打たれたような鋭い衝撃。意識が急速に遠のき、糸が切れた人形のように、その体は床へと崩れ落ちた。
◇◆◇
その少し前、遠く離れた病床で、リナは言いようのない胸騒ぎに襲われていた。
(……陛下はどこに?)
『囁きの小箱』を通じたグランからの返答は、彼女の最悪の予感を裏付ける。
「マリアさん! 王子が危ない! 陛下が!」
その声は悲鳴に近かった。外れていればいい、だが胸のざわめきが止まらない。
マリアは即座に政治的な危機を悟り、傍らの影に叫んだ。
「黒曜の疾風! 嘆きの塔へ! 最短で王子と陛下を確保して!」
◇◆◇
ハヤトは昏倒した王を一瞥し、牢の奥で倒れるクロードへ視線を移す。
「……はぁ。こっちは間に合った、が……ん?」
クロードの様子がおかしい。浅く喘ぐ口元から血の混じった泡が溢れ、見開かれた瞳はもはや何も映さず、ただ虚空を彷徨っている。刃に塗られた速効性の毒が、既にその命脈を蝕みきっていたのだ。
僅かな痙攣を最後に、その体はぴくりとも動かなくなった。
「……ちっ。こっちは無理だったか」
ハヤトは空を見上げ、独りごちる。
「……あんたはまだ死なれちゃ困るらしいぜ、王様。難しいことは知らねえが、今あんたが死ぬと、アルフォンスとかいう新しい王様の正当性がどうとか……面倒なこった」
(……まあ、元国王は間に合った。あのちびっこ軍師に怒られずに済むだろ)
気を失った老王を軽々と肩に担ぎ、ハヤトは再び闇に溶ける。
バルコニーからの大歓声は、まだ鳴りやまない。
その輝かしい光のすぐ裏側で、一つの命が静かに消え、一つの命が辛うじて繋ぎ止められたことを、今はまだ誰も知らない。
王国の新しい時代は、最初の犠牲と影の働きの上に、その幕を開けた。




