第54話:勝者と敗者
ハクが生み出した濃霧は、アークライト軍が完全に森から撤退したのを見届けた後、まるで何事もなかったかのようにすうっと晴れていった。
後に残されたのは、朝日を浴びて静まり返った森と、そこに点々と残された戦いの残骸だった。
僕とミリアは村の仲間たちと共に、その「戦場跡」を検分して回っていた。
しかし、そこに血の匂いは一切なかった。
あるのは兵士たちが恐怖のあまり投げ捨てていった、大量の剣や槍、泥まみれの鎧の数々。
それらはもはや武器ではなく、ただの鉄くずの山にしか見えなかった。
「……ひどい有様ですね」
ミリアが呆れたように呟いた。
「ええ。ですが、誰も死なずに済んだ。それが何よりです」
僕がそう言うと、ドワーフの一人が興奮した声で叫んだ。
「リオ様! こっちだ! まだ逃げ遅れた奴らがいたぞ!」
僕たちが駆けつけると、そこには十数名の兵士たちが木の根元で力なくうずくまっていた。
彼らは僕たちの姿を認めると、びくりと体を震わせ、恐怖に歪んだ顔で命乞いを始めた。
「た、助けてくれ……! 俺たちはもう戦う気はない!」
「殺さないでくれ……! 何でもするから……!」
彼らはもはや騎士ではなかった。
ただの戦に敗れた、哀れな男たちだ。
僕は彼らの前に進み出ると、穏やかな声で言った。
「……安心してください。あなた方に危害を加えるつもりはありません」
僕はミリアの方を振り返り、指示を出した。
「ミリア。彼らに温かい食事と、傷の手当てをお願いします。それが終わったら解放してあげてください。アークライト領へ、無事に帰れるように」
「……! はい、分かりました!」
ミリアは一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに僕の意図を理解して力強く頷いてくれた。
僕たちの目的は彼らを罰することではない。
僕たちの意志を明確に示すことだ。僕たちは無益な争いを望んではいない、ということを。
解放された兵士たちは何度も、何度も僕たちに頭を下げながら、故郷へと帰っていった。
その背中を見送りながら、僕はこの「無血の勝利」を静かに噛み締めていた。
◇
その日の夜、聖獣の郷は村中が歓喜に沸いていた。
広場には巨大な焚き火が焚かれ、それを囲むように村人たちの笑顔の輪が何重にも広がっている。
「「「乾杯!」」」
誰かの音頭で皆が一斉に、エールのジョッキを掲げる。
僕たちの勝利を祝う盛大な宴の始まりだった。
ドワーフたちは回収した武具を肴に、自慢の酒を酌み交わしている。
「見ろよ、この剣! 王都の騎士様が使うもんだってのに、なまっくらだぜ!」
「こいつは溶かして鍬にでもしてやるのが、お似合いだな!」
兎獣人たちは自分たちが奪った食料で作った、豪勢な料理を振る舞っている。
子供たちはそんな大人たちの周りを、嬉しそうに駆け回っていた。
その輪の中心で、僕は仲間たちから次々と祝いの言葉をかけられていた。
「リオ様! あんた、すげえよ! 本当に血の一滴も流さずに、あの三千の大軍を追い返しちまうんだからな!」
「ええ、リオさん。あなたのやり方は正しかった。私たちはそれを証明することができました」
そんな中、グルドさんが僕の隣にどかりと腰を下ろした。
彼は僕のジョッキになみなみと酒を注ぐと、その無骨な顔を少しだけ赤らめながら言った。
「……リオ。お前さんはワシらの誇りだ。この村の全ての民の、誇りだよ」
その不器用だが、心のこもった言葉に僕の胸は熱くなった。
僕はこの村に来て、本当に良かった。
このかけがえのない家族たちと出会えて、本当に良かった。
宴は夜が更けるまで、いつまでも、いつまでも続いた。
◇
一方で、その頃。
アークライト城は墓場のような沈黙に、支配されていた。
ボロボロの姿で城に逃げ帰ったバルドを待っていたのは、ねぎらいの言葉ではなかった。
家臣たちの冷え切った、侮蔑の眼差し。
彼らはもはや、バルドを次期当主として見てはいなかった。
アークライト家の誇りを地に貶めた、愚かで惨めな敗軍の将。ただ、それだけだった。
父ガレンは、バルドの顔を見ることもなく自室に閉じこもってしまった。
彼が何を思っているのか、誰にも分からなかった。
バルドはたった一人、がらんとした謁見の間で立ち尽くしていた。
彼の心は屈辱と絶望で、完全に折れていた。
聖獣の郷の歓喜の宴。
アークライト城の絶望の沈黙。
勝者と敗者のコントラストは、あまりにも鮮やかだった。
◇
しかし、ただ一人、村の喧騒から少し離れた場所で夜空を見上げていたリアムだけは、冷静にこの勝利の先に待つものを見据えていた。
「……やれやれ。確かに見事な勝利でした。ですが、問題はこれからです」
彼は誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「このまるでおとぎ話のような勝利を、王都の権力に飢えた狐たちがどう判断するか。――本当の戦はまだ、始まったばかりですよ、リオ殿」




