アレス外伝
わたくしが嫁ぐことになったお相手は、ナシテール様と言います。
お顔だけは本当に美しくて、口を開かなければ色気のある天使のような方です。
「この契約書をよく読んだな?異議はないな?では、サインを書け」
実際には口の悪い横柄な方ですけどね。
サインというのはこの結婚が、お金による繋がりであって、お互いの恋愛について一切干渉しないという契約書です。
サインをしましたから、今から旦那様ですね。
わたくしの家は格だけは高いのですが、金銭的な余裕がありません。旦那様は実家に多額の寄付をする代わりに私を買い取ったのです。
旦那様は新興の貴族で、商売に成功して成り上がった田舎者、という風評をわたくしという格を買い取ることで拭い去ることができればよいのだそうです。
そして、旦那様は平民に恋する方がいらっしゃるとか。わたくしとの間に子をもうける気はなく、生まれてきた子を私との間にもうけた子として申請するのだそうです。
「それに、君の実家には多額の寄付をしたのだから、君自身に金をかける気はない」
んですって。
まあ、なんとか生きていけるでしょう。こちらの離れを用意してはくださったのですし。
今までも、生活は苦しかったですものね。
でも今だけ、少しくらいなら泣いてもいいでしょうか。
一応は16歳。結婚に夢を馳せることもありましたのに、ね。
旦那様が去り、数少ない使用人達が仕事に向かいます。
使用人の人数が少ないですから、フルに働かないと回りません。
けれど、残された使用人は老年の者達ばかりです。
わたくしも少しならお手伝いできるのですけど、今日はまだ旦那様の部下の方達の目があるかもしれませんから動けません。
使用人の手を煩わせないよう近くを散策します。
散策、とは言っても敷地内ですから、お供する使用人もいりませんしね。大きな木のある川縁で腰をおろしました。
景色が次第に歪んで見え、これから1人でどうして生きていこうか途方に暮れました。
けれどわたくしが1人我慢すれば、妹や弟はあの家で貴族らしく生活できるのです。
「泣いてるの?」
突然声をかけられました。綺麗で華奢な少年、でしょうか。黒を基調としたパンツスタイルがとても凛々しい剣士です。
「驚かしちゃったかな。涙が止まっちゃったね」
顔に残った涙の後をハンカチで押さえてくれました。
「お姉様、どなた?」
少年のように見えますけど、声の柔らかさが女性です。
少しだけ人と話したい気分ですもの。
ここが私有地で、勝手に入り込んではいけない場所だなんて野暮なこと、言いませんよ。
と、お姉様が少し目を見開いて笑いました。
「私はアレスティーナよ。みんなにはアレスって呼ばれてるわ。涙姫は?」
「わたくしはティアラと申します」
するとお姉様は私の隣に腰掛けました。
お姉様は話を聞くのがとてもお上手で、結婚やこれからについての不安なんかもするっと話してしまいました。
「そう、ではティアラは自分で生活できるようになればそれでいいと思っているのね?」
「はい、お姉様」
お姉様はニコリと笑いました。
「ティアラは洋裁や刺繍はできるかしら」
「はい、得意ですわ。父様や母様の衣装を手直しして、妹や弟の衣装を作っていましたから」
妹や弟は元気かしら。
離れてたった3日なんですけどね。
「では仕事を依頼してもいいかしら。そうすれば生活費の足しになるでしょう?布や糸などはこちらが用意するから、指定されたデザインの服を縫ってほしいのよ」
「かしこまりました」
お仕事を用意してくださるお姉様は、雇い主様ですものね。
「それから私のことは、アレスって呼んでほしいわ」
「アレス様」
よくできました、と言うように笑ってくれました。
「これで私達はお友達よ」
お姉様はお友達だと思ってくださるようです。
心に光が射したような気がして、晴れ晴れとした気分になりました。
「じゃあ、これは前払い分よ。とは言っても今手元にお金がないから、食料になってしまうけど」
お姉様がハニカミました。
「食べる物も困ってるって言ってたから、ひとまず置いていくわ」
お姉様がドンッと置いたのは肉の塊でした。
どこから出したのでしょうか。
「これでしばらく困らないでしょう?」
3日後にまた来ると言い残していかれましたけど、私達の人数では3日で食べ切られない量です。
……冷蔵室に入りきるかしら。
お姉様の感覚はどうなっているのでしょう。
頼まれるお仕事を思い、少し不安になりました。




