53 帝国を背に、王国へと続く道
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そして、出発を控えた夜――。
月明かりが差し込む中、エミリアーナは長い廊下を歩いていた。
明日には王国へ戻る。その胸のうちには、まだ整理しきれない思いが渦巻いていた。
「エミィ。……そこにいたか」
声をかけてきたのは、月光を背に立つハイゼンだった。彼の瞳はいつもより真剣で、けれどどこか寂しげでもある。
明日からの長旅の準備のため、エミリアーナ達は城に宿泊していた。
「ハイゼン、眠れなかったのよ……」
「俺もだ。……少し話さないか?」
差し出された彼の手を取ると、ふたりは静かに中庭へと足を運んだ。
ハイゼンはぽつりと口を開く。
「明日君が危険な場所に戻るのは、俺にとっても試練だ。 護衛として君を守り抜く。だが――」
そこで言葉を切り、彼はエミリアーナの方へと身体を向けた。
「もし俺が護衛以上の存在でいられたなら、君をもっと強く守れると思うんだ」
「……ハイゼン」
「エミィ。俺は君を愛してる。これは護衛としてでも皇子としてでもなく、ひとりの男としての気持ちだ」
エミリアーナは目を見開く。その心臓が、どくんと跳ねた。
「……耳が、出そうになってるわよ?」
「今は抑えるのが精一杯なんだ……!」
頬を赤くしながら、彼の頭から獣の耳がぴょこりと顔を覗かせる。それを見て、エミリアーナはふっと笑った。
「ハイゼン。私も貴方のことをもっと知りたい。……きっと、それは恋に近い感情なのだと思うの」
「……じゃあ、希望はあるってことだな?」
「ええ。少なくとも耳が出るくらいには、好きよ」
「はぁぁっ……! 俺、獣の耳があって良かった……!」
彼はエミリアーナの腕を掴むと、グイと引き寄せて抱きしめた。
「君さえ望めば、すぐにでも正式な婚約にする……」
彼女はもう抵抗しなかった。ただ静かに時が流れ、月と皇帝夫婦がそっとふたりを見守っていた。
◇◆◇◇◆◇
空が白みはじめ、帝都の高台にも静かな朝が訪れる。エミリアーナはバルコニーから街の景色を眺めていた。
出発の朝だというのに、不思議と心は落ち着いている。
しばらくすると、コンコンと控えめなノックがあった。
「お嬢様、そろそろ支度を始めませんか?」
リリーの声だった。
「ええ、ありがとう。すぐ行くわ」
振り返った彼女は、穏やかな笑みを浮かべる。昨夜のハイゼンの言葉が、まだ胸の奥で温かく灯っていた。
◇◆◇◇◆◇
その頃、ハイゼンは執務室で書類に目を通していた。
「準備は万全……。あとは、アイツらを守るだけか」
机の上にはカレンヌ王国の地図と、同行する者の名が書かれた一覧表。
ふと視線を上げると、昨夜交わしたエミリアーナの「私も貴方を知りたいの」という言葉が脳裏に蘇る。
「……知ってくれ。俺の想いも全部」
軽く目を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ出発の時間だな」
◇◆◇◇◆◇
白く靄のかかる廊下を、ハイゼンとエミリアーナが並んで歩いていた。
出発を目前に控えたふたりの足取りは、どこか名残惜しげだった。
「……エミィ。心残りはないか?」
立ち止まったハイゼンが、そっと彼女の目を見つめる。
「ええ。王国で終わらせないと、何も前に進まないもの」
凛とした瞳で返す彼女の声に、迷いはなかった。
そこへ、後ろから誰かの足音が響いてくる。皇帝エドガルドが姿を現した。
「お前たちか。ちょうどよかった。……顔を見ておきたかったんだ」
それだけで空気が引き締まった。エミリアーナはすぐに一礼し、ハイゼンも姿勢を正す。
「皇帝陛下、あの……ありがとうございました」
「礼など要らぬ。お前が我が息子に、笑い方を教えてくれただけで十分だ」
エドガルドの目が細められる。いつもの鋭さとは違う、静かな温もりがそこにあった。
「ハイゼン。お前の判断は帝国の方針と合致している。仮だとしても、今回の婚約は歓迎しているつもりだ」
「……はい。父上」
「だが結果を急ぐな。お前もまだ若い。彼女の心を本当に手に入れたいなら……、焦るでないぞ?」
「はい……。肝に銘じます」
まっすぐに頷いた息子の肩を、皇帝はぽんと軽く叩く。
「エミリアーナ嬢。カレンヌ王国で何があろうと、我が帝国はお前の帰る場所だ。それを忘れるな」
「……はい」
その言葉が彼女の胸の奥に深く染み入った。
思わず涙が込み上げそうになりエミリアーナは頭を下げたまま、ひとつだけ深く息を吐く。
「よし、行け」
皇帝が背を向け、ふたりの背中を見送るように静かに玉座の間へと戻っていった。
◇◆◇◇◆◇
朝早くから、城は慌ただしい雰囲気に包まれていた。
「殿下、こちらの書類には陛下の印も押してあります。通行証の写しも3部用意済みです」
「よし。リリー、配布用の名簿は確認したか?」
「はい。予定通り本日午前に第1組が出発、私たち本隊は昼に出ます。護衛の再編も終わっています」
「うむ。頼りになるな」
ハイゼンはリリーに目を細めて頷く。
朝からリリーとママコルタの息はぴったりで、資料の山もあっという間に片付いていった。
「……髪、短くなりましたね」
ママコルタがリリーの髪にそっと触れた。
「えっ?」
「切られたんでしょう? 侯爵邸に戻ったとき……」
「はい。誰かのために立ち向かいたいと思える気持ちが、私の中にもあるんです。これはその決意表明ですから」
リリーの声に、ママコルタの目がほんの一瞬だけ揺れた。
「……そうですね。よく似合ってますよ、その髪」
「ありがとうございます。ママコルタさん」
彼らの距離がほんの少し縮まったように思えた。
城の門の前には、華やかに装飾された馬車が並ぶ。荷物も全て積み終え、出発の合図を待っていた。
「よし、準備は整いましたかね?」
ママコルタが確認の声を上げると、リリーが駆け足で戻ってくる。
「報告完了です! 道中の安全確認、問題なしです!」
エミリアーナは、そんなやりとりを見守っていた。ふと視線を感じて振り返ると、ハイゼンがこちらを見ている。
「……心の準備はいいか?」
その問いに、エミリアーナはしっかりと頷いた。
「ええ、貴方が一緒なら。大丈夫」
帝国からカレンヌ王国へ――。聖女とその仲間たちの帰還が、いま始まろうとしていた。
◇◆◇◇◆◇
「帝国に向かうときは、途中から徒歩だったわね? ハイゼン」
「ああ、そうだったな」
途中何度も休憩をとりながら、数日かけて王国への道を進んだ。エミリアーナは隣に座っているハイゼンを見上げる。
「今だに実感がわかないわ。ほんの少し前は侯爵邸の庭で読書していたのに」
「確かにそうだな……」
日が傾く頃、ようやく一行はカレンヌ王国の近くに差し掛かった。
「もう少しだな」
ハイゼンが馬車の外を見ながら呟いた。
「帰るって、なんだか少しだけ胸が高鳴るわね」
エミリアーナも窓の外に目をやり、遠くに見えてきた王国の風景を眺めた。
「ああ、あそこには待っている人たちがいる。新しい未来を作るために、帰らないとな」
ハイゼンの言葉にエミリアーナは黙って頷き、心の中で何度も女神に誓いを立てた。
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