『あぶくはふたたび夢を見る』(そしてあの時へ)
ワカバはずっと待っていた。待っていたのだ。
ラルーが来てくれることを。
だけど、それすら忘れてしまいそうになる。
ふと何かに攫われて、暗闇の向こうへと消えてしまいそうになる。
だから、月明りに自分を確かめるのだ。
あの夜、ラルーはワカバを研究所から逃がし、こう言って去った。
「いい? 何があっても声を出さないで」と。
風の子に言葉を奪われたくはないでしょう?
と。
だから、ワカバは暗い路地裏で、雨が降り始めたその場所で、ずっとただラルーを待っていたのだ。ラルーは優しく微笑んでくれていたから。ただ、帰ってくると信じたくて。
しかし、ラルーは現れず、ランネルが現れた。
「ラルーの代理だ」と言って。
だから、ワカバはここにいて、首と手足を繋ぐ鎖は壁にある。
きっと、ワカバが何かを間違ってしまったのだろう、と思った。
ここに来てからのワカバは、研究所にいた頃よりも、痛くはなかった。
ただ、一度だけ、頭を殴られた、ような気がする。
声は出さなかった。約束だから。
ワカバはあの時、暴れたのだろうか?
人間は、ワカバが反抗するように暴れると、怖がって牙を剥く生き物だったから。
覚えていないのだ。だけど、ワカバの頭囲にはぐるりと包帯がまかれてあって、その一部がギシギシ痛むのだ。そう、ちょうどここが。
鎖に重い腕をあげると、ガチャリと音がなる。
そう、重くて痛い。
鎖が重いのか、腕が重いのか、それも分からない。
ただ、月が日々形を変えていくということだけを、ワカバは知っていた。
ワカバはランネルを待っていたわけではない。
誰を待っていたのだろう。
ただ、彼ではないことは確かで。
その冷たい場所には、騒がしい人間が大勢いた。
ワカバの前には、冷たくなった碗があり、いつからか、その中には何も入らなくなった。
ワカバが何も口にしなかったからだ。
今、その碗の中を覗くものは、小虫だけ。
ごめんね、そこにあなたの食べるものはないの。
そんな風に思う。
そう思うのは、誰かが「生き物は何かの命を食べて生きている」と教えてくれたから。
だから、ワカバは生き物ではなく、魔女なのだ。
ある日、すべてが静かになった。
白衣を脱いだランネルが、顔を覆い、ひしひしと笑っている姿だけが見えた。
あぁ、空っぽになったんだ……。
そんな風に思った。
冷たい床に広がる長い髪は茶色い色をしている。なんだか可哀そうに思えて、冷たい指で床に散らばるその髪の一束をまとめた。
これは、誰の髪?
まるで自分のものではないような、そんな感覚だった。
彼女はずっと何かを待っていた。
毎日様子を見に来る、空っぽの人間ではなく。
空っぽの人間は、彼女の細い腕に針を刺すと、ただひしひし笑って去っていくだけ。
待ち人ではない。それは確かで。
簡素な服からはみ出ている細い足と、腕と。布に包まれている体がいったい誰のものなのかも分からなくなっているけれど。
だけど、これは『わたし』
その日は月明りもない闇の中にあった。
わたしは、ただ波に漂うようにして、ゆらりゆらりと、闇を見つめていた。
闇の中に溶けたわたし。
きっと、もう何にもない。
それなのに、音が聞こえた。闇の向こうにわずかな射しこみがあった。闇に現れたのは、蒼い海。
少しずつ闇から現れるその何か。
わたしは、それを知っている。海の色をしているその瞳を。
知っている……。
そう思うと、胸が苦しくなって頭痛が激しくなった。
そう、知っている。
知って、いるのだ。
鼓動が、全身を巡っていく。
だから、わたしはその海に声を掛けた。
「あの……」と。
近づいてくる『海』は、……人間だった。
人間はわたしを傷つける者。
だって、わたしは魔女……だから。
魔女は人間に恐れられるものだから。
だけど、わたしは人間を恐れていた。人間は、わたしを『痛く』するものだから。
それなのにその人間の手は温かく、わたしの肩に乗せられる。
この手も知っている。
それなのに見つめた先にあるその瞳が、押し寄せていた波が必ず引くようにして、当たり前に遠ざかっていく。
いかないで。
そう思った。
「あの……」
彼を引き留めたその理由は分からなかった。だけど、彼はわたしを逃がしてくれると言う。
人間は魔女を恐れ、傷つける者なのに。彼はわたしを拘束している鎖を解いた。不思議で不思議で仕方がなかった。
……あなたは、わたしを傷つけない? 痛くしない? 怖くない?
声にならない言葉は、人間の彼にはもちろん通じない。だけど、彼は立ち止まり『魔女』に名前を問うたのだ。
「名前は?」
なまえ……。
名前なんてなかった。だけど、ずっと呼ばれてきたとても大切な言葉はある。
「……ワカバ」
「ワカバか……」
人間はその言葉を復唱し、自身を名乗った。
その人間の名前は『キラ』。そこはとても穏やかな、そんな場所。
きっと、『キラ』は『ワカバ』を傷つける者ではないのだ。
だから、わたしは『ワカバ』になろうと思った。『ワカバ』はいつも大切な者に呼ばれていた言葉。そんな風に感じたから。
深海の闇の中、あぶくが弾けて昇る。
『ワカバ』という魔法が空に広がり、ふたたび世界を描き始めた。
Ephemeral note「過去を変える魔女と『銀の剣』を持つ者」
完
あとがきを書いて完結とします














