『トーラを持つふたり②』
ルタは、ルタの言葉に驚いて目を見開く、まだ幼い魔女を見た。
「忘れてはなりませんわよ。魔女は過去を変え、今を変化させますが、人間は今から未来を変えることが出来るのです。決して魔女だけが強いわけではないのです」
幼い魔女は何も言わない。だから、ルタはただ続けた。
「だから、たとえ力を持たない『ルタ』であれ、あなたごときに負けるわけがありませんでしょう?」
そう。彼女は幼い。彼女とルタでは修羅場をくぐってきた数が全く違うのだ。
だから、彼女の紡ぐトーラは穴が多い。力押しされればもちろんルタが負けてしまう相手だが、その穴を掻い潜ることは可能であるし、彼女が力押しという手に出ないということも、ルタは誰よりも知っているつもりだった。
それを破ってくるのであれば、ルタは確実に敗北だった。
要するに、ワカバは負けたくないが勝つ気はないのだ。だが、ルタが勝ったというわけでもない。
「そうですわね。敗因があるとすれば『ワカバ』を消して進んだことでしょうね」
ルタは落ち着いて彼女に伝える。ワカバがあれば、彼女は彼の性格くらいは考えて行動出来ただろう。しかし、やはり彼女はそれを否定した。
「でも、ワカバがいると」
――きっと、逃げたくなる
彼女は、口を噤んで視線を落とした。そんな彼女を見ていると思ってしまう。
本当にどうして、こんな魔女に負けてしまったのだろうと。それなのにルタは彼女に敗北感は感じていない。
いや、負けた気がしない、という方がルタの真実に近いのかもしれない。
「彼はあなたを殺すことはないそうですわよ。ぐずぐずしていれば、先陣の失敗と見なしたリディアスが、第二陣を派兵しますわ」
焦りを帯びる新緑色に、ルタは勝者の微笑みを浮かべて見せた。
「魔女を庇った人間がいることは確かです。ディアトーラに耐えきれるとは思いませんけど」
そのルタの言葉に、瞠目していた彼女がルタをそのまま睨みつけた。まるで、弱い獣が怯えながら、小さな牙を向けようとしているような。だから、ルタは彼女の言葉を待ったのだ。
たとえ、トーラとして生きると決めたのだとしても、彼女が『ワカバ』であって欲しいから。
そして、彼女が口を開く。
「どうして、ワカバになんてしたの? ワカバになんかにならなかったら……」
こんなに苦しくもない。
だって、あの時は何も感じなかった。
でも、金魚ちゃんの時は、悲しかった。
ワカバだから、出来なくなった。
「ラルーのせいよ。今もラルーが邪魔するから。足も怪我してなかったら、助けられることもなかった。だから、キラはリディアスに連れていかれる。キラは魔女じゃないのに。ここで幸せに暮らすはずだったのに。ディアトーラに現れた悪い魔女を捕えてもらおうと思っていたのに……だから、銀の剣を持っていて欲しかったのに」
悔しさからの涙が彼女の頬に流れた。ルタは彼女の言葉を否定するのでも認めるのでもなく、ただ、じっとその叫びを聞いていた。
馬鹿なことだとは思っていた。しかし、彼女が一生懸命に考えただろう彼女の『幸せ』を、ルタは完全に否定はしたくなかったのだ。
「では、どうしてわたくしを完全に消さなかったのです? 悪い魔女なのでしょう? あなたは。だったら、わたくしを消して、その居場所にイルイダを残せばよかったのです。あなたが消える必要などどこにもありませんでしょう?」
「だって……」
だって……。わたしはルタにも生きていて欲しいから。ルタは、本当はルカみたいに人間になりたかったのでしょう? それが出来なかったのでしょう? ラルーは優しいから。
ルタには、ワカバの心の声は聞こえない。それなのに、ワカバはその言葉も届くとどこか思っていた。悪い魔女だから、本当は届かなくてもいいのに。
ラルーが優しいことを伝えたくて。
そんなことを思いながら、矛盾を抱え、たどたどしい言葉を吐き出した。それは、あの『ワカバ』と同じく。
「だって、ルタは悪い魔女じゃないから……トーラは人間の願いを叶える者だから……ルタは人間だから」
「では、あなたは何を望んでいるのですか? 彼に何を望ませたいのですか? 望まぬ願いを叶えてどうするのです」
彼女の答えを聞いたルタは、彼女への答えの後、一息置いて声色を変えた。
「本当に悪い魔女になりたいのならば、そうすべきでしょう? 望みなど、決してきれいなものばかりで出来ているわけじゃないのですから。彼の目の前で、イルイダを血祭りにあげるくらいしてごらんなさい。そうすれば、彼にあなたを銀の剣で刺すよう、確実に仕向けられたことでしょう。少なくともわたくしならそうしました」
「そんなことっ」
「覚悟も足りないトーラなど、あやふやでいつ崩れるか分からない世界の軸など、誰が望むというのですか? あなたは、トーラになる道を選んだのでしょう?」
彼女は誰も傷つけたくない、という行動原理の下、動いている。いくらイルイダの復活が約束されていようとも、姉が目の前で殺されたという記憶を残したまま、魔女を殺す勇者にはしたくないのだ。銀の剣を持つ者は、魔女の記憶を持つ者だから。唯一時の遺児以外で過去の記憶が変わらない者だから。だから余計に銀の剣を運ぶルタが邪魔になるのだ。銀の剣の保持者はルタのみである。ルタはただ、魔女が無闇に殺されないために、人間に剣を貸し与えていただけなのだから。
彼を時の遺児にせず、ワカバの紡ぐ新しい世界で、ワカバの記憶を残す方法。
それは、彼が銀の剣を持つ者でなければならない。
ルタは、それを知っていた。
『ラルー』の存在だけを消すなど、そんな器用なことができるのに……彼女が選んだ方法は、自己犠牲。だからルタは、彼女を放っておけないのかもしれない。
「叶えなくても良い者のことなど放っておくべきだったのです。だけど、あなたには、それが出来ないのでしょう? だったら、トーラとして一人で生きていくなど考えるべきではありません」
勢いが収まらないルタの言葉から、わずかに力が抜ける。
「トーラは人間の望みを叶える者です。人間としての生もあるあなたなら望めたでしょうに」
彼女は『ワカバ』というトーラを持つ『人間』の願いを叶えられたはずだ。彼女は、初代トーラと同じ、どの世界にも存在しないのに、望まれて生みだされた人間だったのだから。
自分の願いが最後まで分からなかった始まりのトーラと違い、『ワカバ』は望めたのだから。
「だって……」
しかし、そのまま立ち尽くすワカバは、ルタに言い返せなかった。トーラなら、そうすべきだったのだろう。人間の望みを叶える。『ワカバ』は人間である母の望みの下、この世界に生まれた。
この世界にもワカバを望まない人間もあるだろう。しかし、本来あるべきだったこちらの世界は、ワカバを望む人間の望みの方が強いのだ。
だから、ラルーはわざわざワカバを憎む世界を作り上げたのだから。
それなのに……。
「どうして……ラルーは、わたしを邪魔するの?」
ワカバは同じ言葉を、今度は力なくルタに伝えていた。
「伝えたはずですわ。あの時に。すべてはわたくしが悪いと。わたくしは、あなたがただ、……憎かった。だけど、それが間違いだと気づいたのです。あなたは、ただ望まれて生まれただけ。だから」
小さくなったワカバを、とても無防備なルタがふわりとそれでも力強く抱きしめた。
――どうか、お許しください
と。
ルタが呟いた。呟いたのだと、ワカバは思う。
ワカバはルタのあたたかな体温を感じながら『ラルー』の匂いはラベンダーの匂いだと思った。髪色もそうだけど。ふわりと甘く、どこか安らぐ匂い。だけど、ラルーだと、魔女であり続けなければならない。
ルタは、悪くない。
だって、……。
――ルタから世界を奪ったのはわたしだから。
抱きしめられたワカバは、せせこましいルタの胸から顔を自由にして、ルタを見上げた。
ワカバに気づいたルタだったが、ワカバの背後に視線を向けたまま、言葉を落とし始める。
「トーラなら……。叶えなくても良い者のことなど放っておくべきです。あなたはそれだけの力をもっているのですから。そして、トーラとして一人で生きていくことなど考えないでくださいませ。途方もない時間を生きるということは、決して容易くありません。『ラルー』なら役に立って見せますわ。だから、どうか共に在らせてください。そして、いつか、それでも必要ないと感じられたのであれば、その時に、ルタに戻してくださればいいのです。もう、邪魔建てなどしませんから」
邪魔建てなど。今のルタからはまったくそんな雰囲気は感じられなかった。もし、ワカバがルタを突き放したとしても、ルタはきっとそのまま消えることを良しとするのだろう。
そんな風にワカバは感じていた。
「だから、どうか消えないでください。わたくしを許してください」
教会の中は、蒼い光に満たされて、海の底にあるようで。
キラの瞳の色と同じ色に染まっている。
今、ワカバは大好きな、失いたくない者たちの中にいる。
「人間であるルタなら、トーラであるあなたに望んでも構わないでしょう?」
そんな彼らの望みは叶えるべきなのだろう。トーラならきっと、そうすべきであって。
ワカバは迷いながら、ルタに尋ねた。
「……本当にワカバはいて良いの?」
ルタがラルーのように微笑む。大丈夫の微笑みとともに。
「えぇ、ここにいてくださいませ。そうでないと、彼の存在は守れませんからね」
と。
とても静かに。
第三章『望まれた世界』了














