『ねがい』
両膝をついたルフィーユが教会で祈りを捧げていた。
ルオディックの回復を願って。
そして、その手には刺繍のハンカチが。
「敬虔さは時に危ぶみを生みますわよ」
ルフィーユは静かにその両眼を開き、その声の主に向き合う。
「えぇ、わが国ではトーラは悪の化身。だけど、ここに伝わる過去から見れば、リディア神に正義があるとも思えません」
リディアスのことを今もわが国と言うルフィーユは、すくっと立ち上がり、そのトーラの御使いとされるルタを見つめた。
「だけど、縋りたくなることもあります」
「彼女から何を?」
ルタが視線を向けるのは、ルフィーユの持つ刺繍のハンカチだった。
青い花の刺繍。
そして、それを手に持つルフィーユがルタに視線を合わせ、ルタに尋ね返していた。
「ローズマリーの花言葉は『あなたは私を蘇らせる』……。彼女はどういった意味でこれを私に託したのだと思いますか?」
ひとつの花に花言葉はたくさん存在する。
例えば、ローズマリーなら記憶に関すること。
追憶もそうだ。
今の彼女の状態とも言える。
ルフィーユのその表情は優しく穏やか。何かを悟っているような微笑みを称えて。ルタはその微笑みに思ったことを素直に答える。
「花言葉にまで思いを馳せているのかどうか……」
「そう……」
視線を落とすルフィーユがルタに答えた後、今度はルタに視線を合わせずに、ぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
「私は欲張りに出来ているのでしょうね。その方の娘が蘇ることよりも、我が子としてここに現れて欲しいと願っているのですから。今でも息子は彼女に守られていて、あの傷でさえディックは回復してしまったというのに……その方の娘は、誰かが願わなければ消えたまま……だというのに。思いは同じはずなのに」
「無理もないことです」
無理もないことだ、ルタはそう思いつつ、形式的な言葉を、形式的に発する。
「母親ですから」
ルフィーユはそれを知っているのか、諦めたような笑みをルタに返した。
「このハンカチに、ローズマリーを一枝。私もこの花が好きなの」
ワカバが刺繍したハンカチを広げたルフィーユは、視線を落としたまま続ける。
「私がその方の娘を蘇らせましょう」
そして、嫋やかに微笑む。ルタはその微笑みに誠実に答える。
「トーラは何と?」
「同じように、我が子の存在を望む母のことを。そして、ただ息子のために薬を。望めとも何とも言われていませんわ」
ルタはため息をその微笑みに乗せ、そっとルフィーユを見つめていた。彼女も黙って目を伏せた。その視線の先には、ローズマリーが、やはりあった。
彼らはルタがラルーとして紡いだ世界にあった者、マイラとイルイダだ。ワカバの母がトーラに願った、ワカバの生きる世界は、こちらの世界軸。
ルオディックがいて、ルフィーユがある。
魔女狩りは行われなくて、魔女の村は存在している。
ただ、その村は無人のはずだ。時の遺児の集まりである、時を越えられない魔女の村の魔女たちが、こちらの世界軸にあるわけがないのだから。
だから、魔女狩りは行われなかった。
「私が消えるわけでもないのでしょう?」
「えぇ」
確実だけを伝える。ルフィーユはこの世界の駒の一つ。ワカバがこの世界を望んでいる限り、消えることはまずない。しかし、不確実は伝えない。
ルフィーユがここに嫁ぐかどうか、『キラ』の母として存在するかどうか。駒の持つ行く末は、幾重にも広がるのだから、ルタには憶測しか伝えられないのだ。
ただ、長い時間の中ではいずれ近く、彼女はこのクロノプスと繋がるだろうとしか。
☆
――あなたの願いを忘れないこと
目覚めの瞬間、暗闇が見えた。闇はルオディックをゆったりと呑み込み、世界の色を消した。そして、その闇の向こうから、確かな声がした。
「あなたの願いを忘れないこと」
と。
その声にゆっくりとルオディックの瞳が開く。夢の中で聞いていた魔女の声ではない。だが、何も思い出せない。ただただ、全身が鉛のように重たく頭にも靄がかかったように、記憶が不鮮明だ。
朦朧とするのは、深い眠りの中から急激に引き上げられたからだろう。そう思い、重たい腕を持ち上げようと、力を入れてみた。この手を掴んだ者が、……その感触が残っているのだ。
そう、誰かに引き上げられた。
あの深い眠りの海から。
「生きて、いるのか……」
ぽつりとこぼれた言葉を拾う者がいる。
「えぇ、七日ほど危険な状態でしたけれど」
今度ははっきりとその存在を見つけた。リディアス兵の着る制服だ。そして、その容姿は黒髪黒目の女。その女の瞳が細められる。
「お目にかかれて光栄です。ルオディック様。わたくしはリディアスから参りましたルタ・グラウェオエンス・コラクーウンです」
ルタだ。世界を看視し、銀の剣の正当な所持者であるルタが、ルオディックの前で、あの女神像のように微笑んでいた。
その微笑みに、ルオディックは陰りゆく光を見たような、そんな心情を零していた。
「生きているのですね」
「えぇ」
そして、ルオディックであることを思い出し、彼女に挨拶をする。
「このような無様な状態で申し訳ありません。改めて私からも名乗らせてください、看視者ルタ。私は、ここディアトーラを治めているクロノプスの息子・ルオディック・クロノプスでございます。ただ、度重なる不躾で申し訳ないのですが、お尋ねしても? 父母は帰ってきていますでしょうか? あなたさまを含め、早急にお伝えしなければならないことがございます」
ルタは微笑みを絶やさない。そして、ルオディックの要求にはまったく触れず、傷を気遣うような柔らかな言葉を彼に与える。
「ご回復されましたようで安堵しております。しかしながら、慌てなくても構いませんわ。あなたにお話がございます。お時間いただけますか?」
ルオディックの逡巡にも彼女は気を害することなく、穏やかに彼を見つめていた。
ルタは、丁寧で穏やかだった。
そのルタの様子は、聞き及んでいる魔女像の方ではなく、女神像の方に近いもの。
ただ、人知の及ばない『魔性』と『神聖』を同時に感じられることは確かであり、ルオディックの緊張が解れるということはなかった。
それに、本当にあの魔女がトーラなのならば、『今』は彼女の掌の上ということになるのだろうか。
だから、ルタ含めたリディアスの者たちは魔女を追いかけなかったのだろうか。
いや、看視者であるルタに限れば、ルオディックを助けた理由はひとつしかない。
……それが、どうしてなのか、分からない。
だから、ルオディックはその『敵意』のなさをどう取ればいいのか分からぬまま、肯定の言葉を彼女に渡した。
「えぇ、私でお役に立つ話なのであれば……ただ」
ルタをまっすぐ見据え、言葉を選ぶようにして、時を数える。一度ルタから外された彼の視線が、もう一度ルタへと戻ると、覚悟を決めたように口を開いた。
「あなたが、銀の剣を運ぶ者として現れたのであれば、私がお役に立つことはありません。どうぞ、それ以上言わないでください。裏切り者として私をリディアスへ連れて行ってくださってかまいませんので」
そして、一呼吸。
「魔女の磔台に立つ者があるとすれば、この私です。リディアスを裏切った魔女として、引っ立てていただきたい」
どうしてなのか分からない。
なぜか、あの魔女はルオディックに殺されたがっているような気がするのだ。もし、それがトーラとしての最期という意味であるのであれば、世界の看視者であるルタがここに現れた理由は、ただひとつだ。
分からない。でも、二度と彼女が、自分の目の前で死を選ぶことを、許してはならないと感じる自分がいることだけが確かだった。
もし、ルオディックに願いがあるのなら、きっとそれに尽きる。
そんな気がしたのだ。














