『森の中③』
☆
ルオディックに見送られた魔女は、泣きながら歩き続けていた。
思うように動かない足が痛いわけではない。もちろん、頬の傷が残ったことを悲しんでいるわけでもない。
どうして願ってくれないのだろう。
そんな思いが募るのだ。
どうしてそんな思いが募るのか、魔女自身にも分からなかった。
だけど、彼は『姉』の存在を望んでいたはずだと、思うだけで。
そして、彼の存在を、望む何かがいたことを覚えているだけで。
叶えなくちゃという使命感が残っているだけで。
ルタが来ていると聞いた時から、何かが魔女の中で焦りに変わっている。
魔女は灰色の空を見上げ、その隙間に現れ始めた青を見つめた。
「わたしは、誰の願いを叶えようとしていたの?」
☆
雨の匂いが残る森。ディアトーラのものでない言葉が遠くにある。
さすがに、人数は絞ったか……。
大樹を後にしたルオディックは、考えを巡らせながら、彼らの歩む道で出会えるだろう、最適解を探していた。
ルタは賢者でもある。
おそらく、全兵を連れてきたわけではないだろう。
雨上がりの森の中での騒ぎは、大型魔獣に合図を送っているようなもの。
通常、一体でしか動かない大型魔獣も二体三体と出てくるかもしれない。
そんな危険は冒さないだろう。そして、万が一のことを考えて動いているはずなのだ。
万が一、自分たちが戻ってこなかった場合。
万が一、クロノプスの息子がリディアスを裏切るような行為をした場合。
その万が一をルオディックは考え備えていた。
おそらく、あの魔女はまだ村へは辿り着いていないのだろうから。
いや、クロノプスがいなくても、ルタはおそらく魔女の村までたどり着くだろう。
だったら、どうすれば……。
ルオディックは、はっきりと聞こえてくるようになってきた声を耳に、最悪な答えを導き出していた。
そうだ。
魔女の村へたどり着くことが出来るとすれば、ルタとクロノプスだけである。
しかし、逃げた魔女がどこへ向かったのか、ルタは知らない。
どちらかが欠ければ、二手に分かれることは難しい。
そう、ルオディックは自分の価値に掛けたのだ。
彼らはここで倒れている自分を放ってはおくまい……と。
そうして、彼は腰にある脇差に手を伸ばした。
☆
もやっとした森の中に、血液のにおいが混じった。
そのにおいはルタが向かう先から、色を濃くするようにして、漂い、息をするたびに鼻腔を付く。
そして、それに気づいたのは、ルタだけではなかったようだ。
比較的穏便なリディアス兵のひとりが、ルタに知らせる。
「コラクーウン殿」
「えぇ、急ぎましょう」
ルタは言葉通り足を速めた。
茂みを一つ越えた場所だ。細い木の幹にもたれかかるようにして彼はいた。
腹部が赤く染まっているのは、そこに大きな傷があるからだ。しかし、その腹を突き刺しただろう、刃は見当たらない。
ルタは歩みを止める。背後にいた兵が彼に擦り寄り、その生死を確かめた。それと同時にルタも彼の傍に膝をついた。傷はかなりひどい。
「息はまだあるぞ」
「魔女がやったのか?」
ルタの連れてきたリディアス兵がそれぞれに、それぞれの見地を述べる。その人間の思考をもとに、ルタは合点がいった。
あぁ、この勘違いをさせようとしたのね、と。
とにかく止血を。そして、一時の帰還命令を。
彼を死なせるわけにはいかないのだから。
今にも走り出そうとする、息を確かめていた血気盛んなひとりに、傷の手当てを始めていたルタが、制止の言葉を放った。
「今、二手に分かれることは出来ません」
ときわの森は、下手に歩くことは出来ないのだ。たとえ、それがリディアスの兵であろうとも。
クロノプスの案内なしに、ルタの案内なしに動けば、どうなるか分からない。
「ですがっ」
「彼はそれなりに腕が立ちました。魔女はその彼から、短剣を抜き取り、逃走を再開させた。闇雲に走り回れるほど、雨上がりの森での人間の生存率は高くありません」
まだルタの言葉が不消化でしかない兵のひとりがはい募ろうとした。しかし、それよりも先んじてルタは、言葉に刃を乗せた。
「良いですか? 彼はこの国の跡取りですよ。しかも、逃亡した魔女を捕獲しようとした者。さらに言えば、この森に棲む大型魔獣は、常に血肉に渇望しているのです。彼の血だけでも相当な刺激でしょう」
ときわの森にはリディアスが信仰する女神が在る。その女神が住む森は、神聖であるべきだ。
しかし、だからこそ、ときわの森に在るすべては、人間に優しくないのだ。
なぜなら、この森で魔獣の頂点に立つ『魔女』は、ワカバではなくリディアなのだから。
「あなたごときに何か出来るなど、思わぬことです」
連れてきた兵たちなど、すぐに喰われるか、飲まれてしまう。
止血の手をいったん外したルタは彼の血に染まった手で、自身の袖を引き割き、彼の傷口に押し当てた。
「急ぎなさい」
出血が多いルオディックの顔はずっと蒼白い。
ワカバ唯一のアキレス。
彼がいるから、彼女は迷い、この世界に留まるのだから。今あるこの時間は、ルタにとっても最後のワカバを存在させることが出来る機会なのだから。
彼を死なせるわけにはいかないのだ。
ただ、……。
ルタの袖布は、すでに使い物にならないほどになってきていた。そんな真っ赤に染まるルタに一人のリディアス兵が、ルタに続き彼の袖を引き千切った。ルタは彼を見つめ、柔らかく微笑む。
「ありがたくいただきます」
そして、ルオディックの腹部に彼の袖布を巻き付け、簡易な止血とした。
そう、人間は時に何かに突き動かされるようにして、時にとち狂う。
ルタは長きに渡りその性質を利用してきた。
今は、だけど。
ルタの命令通りに動き始めた兵に担がれた彼を見て、ワカバと同じような強情さに感謝していた。しかし、同時に愚かなこととも思っていた。
天晴だわ、と称賛の言葉でも送るべきかしら……それとも、大馬鹿者だと、怒鳴りつけるべきかしら。
まったく、どうして定まった流れだと受け入れないのかしら……。
死を選んでまで魔女を助けようとするだなんて、ルタにはおかしなことだとしか思えなかったのだ。
自分の腹を刺した後、自傷だと気づかれないように、茂みの奥に続く短剣を放り投げただろう血痕の軌跡に気づいたのは、ルタだけだったということが、彼にとっての幸いだったのだ。
『森の中』了














