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Ephemeral note「過去を変える魔女と『銀の剣』を持つ者」  作者: 瑞月風花
第三章『望まれた世界』

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『森の中①』

 雨が上がり、森の中にある冷気が氷の粒のように森に落ちてくる。黒く顕わになった土も、大地に覆いかぶさる落葉も、まるで時を止めたようにしっとりと濡れていた。

 大地から剝き出た岩につく苔もやはりその緑を静かに深く色を染めている。

 その緑の色は、リディアスが信仰するリディア神の瞳と同じ色。

 リディアはこの大地で静かに眠っているのだ。


 そして、まさに今クロノプス領主館の扉をノッカーで丁寧に叩く女の瞳も、同じ緑をしていた。


 ターシャはその音の変化にやっと扉を開くことが出来たのだ。

 初めは扉を壊さんばかりの乱暴な音だった。おそらく、直接拳で叩いていたのだろう。

 ノッカーの音の後、やはり落ち着いた、それでも遠くまで届く澄んだ声が響いた。

「ディアトーラを統治されているクロノプス家の者に会いに参りました」

 さっきの乱暴な音の際は、だみ声交じりの男の罵声。

 扉の前にいるのは、別の者だということはすぐに分かった。


 その澄んだ声は女性のものだった。だから、ターシャはお仕着せのエプロンの端をぎゅっと握りしめた後、扉を開いた。

「リディアスから参上いたしました」

 ターシャはその姿に凛とした冷たさを感じた。

 しかし、それは陶器のようでいて、どこか柔らかさを感じる冷たさで。知らない間に取り込まれて殺されていた……そんな蛇のような恐ろしさも含まれていた。

 そして、そんな蛇はリディアスの文様でもあった。


「はい。承っております」

 ゆっくりとお辞儀をしたターシャに、後ろの荒くれものが怒鳴る。

「時間を稼ごうとしているのだなっ」

 まさにその通り。

 だけど、そう思うターシャの肩はその声に震えてしまう。


 坊ちゃまとあの魔女のために時間を稼ごうと思って、朝早くにここにやってきたのに。

 やはり、ダルウェンと共にやって来るべきだったのかもしれないと。

 これだったら、あの魔女の方がずっと怖くないと。


「おやめなさい。彼女を震えさせて何の益があるのですか」

 彼女は荒くれ者であるリディアス兵のひとりを、たった一言で窘めて、ターシャに続けた。

「わたくしの名は、ルタ・グラウェオエンス・コラクーウン」


 優しい微笑みの中には確実に『この名の意味は分かりますね』という含みが込められていた。その名前は、リディアスにとっては銀の剣を齎す者かもしれないが、クロノプスにとっては、トーラの御使いである。ターシャでもそのくらいは知っている。

 ディアトーラに住む者ならすべて。恐れる魔女のひとりであり、崇める神のひとり。

 だから、ターシャはルオディックに言われた通りの言葉を発した。


「お待ちしておりました。ただ、今朝がたその魔女が逃亡を図りまして、今、ここを任されていた御子息であらせられますルオディック様がその魔女を追いかけているのです」


 彼らがここにやってきたら素直に話せばいい。

 鍵も閉めていたのだから。

 リディアスの兵は、皆と同じで森を歩けない。

 森を歩く加護があるとすれば『ルタ』だけだ。


 おれが捕獲しようとしていることを伝え、ルタに付いてくる人数を減らすようにだけ、彼らに伝えて欲しい。

 ルタは間違いを起こさないから。

 ターシャは大きく息をして、大切な坊ちゃまの言葉を伝えた。


「森は人間を嫌います。大人数で入るとなると、大型の魔獣が襲い掛かるでしょう。ですので、少しゆっくりと…」

 それなのに、落ち着いた彼女の声がターシャの言葉を遮った。

「えぇ、雨上がりは特に」

 空を嗅ぐようにして、そして、微笑む。先ほどのように柔らかなナイフのような。そんな微笑みで。


「三名ほど連れて入る予定です。大型魔獣相手となれば、この人数は必要不可欠だと思いますから。その他のものをゆっくりと歓待してやっていただけませんか。五名ほどですので、ここの敷地でもそれほど邪魔にはならないと思いますわ」

 あぁ、こちらはこちらで監視されるのかもしれない。


 ターシャはそんなことを胸に、ルオディックの身の安全を祈った。


 ☆


 雨上がりの森は泥濘もあり、ともすれば足を取られる。しかし、魔女はゆっくりと、だけど気丈にルオディックについてきていた。魔獣の気配もなく、風もない。ただ、ひんやりとした空気が森の中に立ち込め、時に靄を作り出していた。

 ただ、この調子で歩いていたら、そろそろ到着したかもしれないリディアス兵に追いつかれてしまうかもしれない。

 ルオディックは森に光を差し込み始めた太陽の強さを見つめながら、魔女を待っていた。


 そして、ルオディックの脇までやってきた魔女は、立ち止まっている彼を見上げ、不思議そうに首を傾げた。

「大丈夫か?」

 ルオディックは何度も魔女に尋ねていた。


 本当は、名を尋ねたいのを隠しながら。どこか、この静けさが悲しい記憶に繋がっていそうで、その静けさを壊したいというだけで。

 魔女はルオディックの質問に、ただこくりと頷くだけ。

 ずっと同じ繰り返しだった。


「魔女の村はこっちだったよな」

 ルオディックの記憶の中には、魔女の村はない。ただ、森の中央にあるリディアの大樹の奥にあるということだけ。その大樹もずっと見ていない。


 やはり魔女はこくりと頷いた。

「お前は……」

 トーラなのか?

 魔女の瞳がルオディックをまっすぐ見つめていた。

「いや、……この速度じゃ、村に着く前に追いつかれる。だからお前を背負って歩いてもいいか?」

 やはり魔女は素直にこくりと頷く。


「ごめんな」

 その答えに、魔女は頭を横に振る。


 ほら、やっぱり、ターシャの言うようにこの魔女は、人間の令嬢なんかとまったく違う。

 裏があるわけでもなく、騙そうとするわけでもなく。

 ただ、信じてついてきているだけ。令嬢なんかよりもずっと、素直に出来ているのだから。


 ルオディックはその魔女の様子にターシャを思い浮かべていた。きっと、それも特定したくないということからの『逃げ』であることを承知の上で。

 ただ、森に入ってから声を聞いていないことが気がかりで、一つ覚えのように「大丈夫か?」と尋ねてしまうだけで。


 名前を聞くのが怖いだけで。


 魔女を背負い、その松葉杖を拾い上げたルオディックは、魔女の温かさにほっとする。

 だけど、同じ血が通っている。だから、裏切りたくないと、ルオディックは思う。彼女の本質を知らなければ、このまま逃げる理由にならないだろうか。

 彼女がトーラだという確証さえ、持たなければ……。

 しかし、それはルオディックの立場が許さない。


「道を間違っていたら、正してほしい」

 背中の魔女が頷く様子が分かった。ルオディックは速度を上げて、森の奥へと進んだ。


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