『雨のディアトーラ』
今日は庭に出られない。魔女のいる部屋の窓にも雨のしずくが打たれて流れる。
魔女は車いすに座ったままターシャに見守られ、教わった刺繍をしていた。
白い布に紫色の花を絵柄に合わせて針を刺す。
この花はラベンダー。
庭にも咲いていた。だけど、この花は魔女の村にもある。とても特別な色のような気もする。
蒼い色も特別な気がするけれど、……。
ターシャのものは、小さな薔薇が咲くもの。薄い桃色で彩られている。ハーブ園とは反対にある庭のものだ。
魔女はぼんやりと庭を思い浮かべた。
「痛っ」
ぼんやりしていると、布を支えていた方の親指を針で刺してしまった。
「ぼんやりしているからですよ」
ターシャが同じように刺繍をしながら、魔女に視線を向けた。魔女はぷくっと膨らんでくる親指の血を吸いとる。ターシャは魔女のその様子も静かに眺めた後、視線を自分の刺繍布へと戻した。
「ずいぶん、上手になってきましたよ。あと少しで完成ですね。次は何をしましょう」
ターシャはそんなことを言う。魔女は首をかしげる。ターシャの方が上手である。そして、次は……。
「ローズマリーにする」
ローズマリーは、蒼い色の花。
蒼も紫も、魔女にとっては特別な色のように思う。
☆
あの手紙がルオディックの手に届いてから、二日経った。
昨日から雨は降り続いている。
魔女はターシャと共に刺繍をしたり、読書をしたり、そして、歩くための練習をしたりしている。
片手に松葉杖、そして、車椅子を押しながら寄り添うターシャが、クロノプス領主館の長い廊下を歩いてくる姿が、ルオディックには見えていた。
心配した魔女の頬の傷は、もうほとんど治っているし、足の木の支えも取れている。後は、湿布と包帯のみだ。しかし、残り二日で森の中を、しかも深部まで歩かせられる状態になるとは、ルオディックにはとうてい思えなかった。
そして、そんな彼に気づいたターシャが、魔女にルオディックの存在を気づかせ、お辞儀をさせる。
どこか無理をしていそうな魔女のその体勢に、ルオディックは声をかけた。
「無理しなくてもいい。ところで、調子はどうだ?」
魔女はこの質問にいつもきょとんとした瞳を向ける。
どうして、そんなこと訊くの? 見れば分かることでしょう?とでも言いたげに。
「順調に回復していますよ。後は時間がお薬でしょう」
そんな魔女の代わりに、ターシャはいつもルオディックに答える。
時間は、ない。
「今は刺繍をして時間を潰しています。雨なので庭には出られませんし。とても上手に針を刺せるようになってきているのです。今、ふたつ目を刺しているところです。坊ちゃまにも次は見ていただけると思います」
まるで自分の娘の自慢をしているかのようなターシャの変わりように、ルオディックはいつも自分の目を疑い、肯定の言葉を述べるに止めるようにしている。
鬼の形相で付き合われるよりもずっといい。
「そうか。それは楽しみだな。でも、庭に出られないのも辛いだろう?」
ただでさえ、体が思うように動かない状態。部屋の中に籠っていると気持ちの鬱積も溜まっていきそうだと、ルオディックは思ったのだ。
しかし、今度は魔女がそれを否定した。
「いいえ、刺繍は楽しいです。本を読むのも。庭に出られないのは残念ですが、大丈夫です。心配いりません」
あれだけ怯えていたことが不思議なくらい、堂々とした物言いだった。しかし、ルオディックの驚きとは対照的に、ターシャは満足そうに微笑んでいる。
ターシャの教育の賜物なのだろうか。ルオディックは別の心配を過らせた。
「無理はしていないのか?」
どちらかと言えば、ターシャに向けて『無理させてないか?』と。
今度はふたりとも答えが返ってこなかった。
ターシャはルオディックの言葉の意味を咀嚼しているようで、魔女はやはりきょとんとしている。
そんな沈黙の後、魔女が言う。
「歩けるようになることが、大事ですから」
と。まっすぐな瞳をルオディックに向けて。
あぁ、そうだな。歩けるようになることが大切だ。ここにいれば、遅くとも四日後にリディアスがやってくる。しかも、銀の剣を持ったルタを連れて。
クロノプスとしては、その魔女を彼らに引き渡さないわけにはいかない。
国を守るため。そして、世界の崩壊を止めるため。
ただ……。
「そうだな」
ルオディックは気持ちと裏腹に、優しく微笑む。
お前は、トーラなのか?
トーラではないのなら、……。
もし、それを尋ねたら彼女は何と答えるのだろう。肯定ではなく、否定の言葉であれば、ディアトーラの町娘として、匿えないだろうか。
そう、否定の言葉であれば。
ルオディックはそんなことを望みながら、彼女に笑みを向けたのだ。
「ターシャ、昼は共に食事を取ろうと思う。ふたりに話があるんだ」
ターシャが口を開く。
「承知しました」
と。
しかし、それは出来ない。ディアトーラの民は素直である。クロノプスがそれを頼めば、きっと叶えてくれるだろう。
リディアスの魔女狩りは、相当なものだ。普段どれだけ紳士として振舞っていたとしても、魔女狩りのための兵は、『魔女狩り』という免罪符のもと、何をするか分からないものとなるのだ。
匿わせた民に被害が及ぶことなど、やはり出来ない。
ぐっと握りしめた拳を肩からだらりと垂らし、ただゆっくりとした足取りで去っていくふたりの背中を、ルオディックは静かに見つめていた。














