『過去を変える魔女と過去を守る魔女』
それはクロノプス家に伝わる伝承とも言えるもの。
この世界にトーラが生まれた世界があった。
その世界には今の世界とは全く違う世界が広がっていた。魔獣も魔女も存在せず、様々な考えを持った人間が住み、繋がり合い世界を統治し、そして争う世界。
空を飛ぶ機械があり、空を飛ぶ武器がある。国と国を結ぶ距離はとても近く、それなのに人々の距離は今よりずっと遠いそんな世界だ。
トーラはそんな世界に生まれ、終末を願われ、世界を滅ぼしたのだ。
そして、クロノプスの始祖とも言われるルカが生まれた。
ルカには双子の姉が一人と、その上にもう一人の姉がいた。
双子の姉はルタと言い、その上にある姉の名前はアナと言った。
アナは初代トーラの器となった女性の娘であり、その世界最後の生き残りであると共に時の遺児でもあった。しかし、トーラはその娘を世界から守り続けたのだ。だから、彼女は他の時の遺児とは違い、この世界に居場所があるたったひとりの存在でもあった。
ルタは、ルカと違い『魔女』を選んだ。そして、ルカが人の世にある時の遺児を守ろうとしたように、ルタは、トーラを持つ魔女からこのトーラの世界を守っているのだ。
トーラは人の願いを叶えるごとに器を変え、存在するものだから。
しかし、人の願いを叶えるための器も、もとはその世界に生きた者だ。
世界を完全に滅ぼすことなど出来ないのだ。
どこか、彼らのつながりが残っている。残っていれば、トーラがその世界を基盤に、新たな世界を紡ぎ直すが、以前の世界を望めば叶えられる。
そんな世界。
その繰り返しの中で、時の遺児と魔獣が生み出され続けた。
だが、例えば。
その人間の願いが、そう、ルオディックの姉のように生み落とされることのなかった存在だったとすれば。
その存在がトーラの器となった場合があったのならば。
この世界とのつながりを一切持たない魔女が生まれてしまう。
その魔女が、新たな世界を望んだのなら……。
今あるすべてが一新されてしまうのだ。何も残らない。そこにあるのは、ただ彼女が望むままの世界だけ。その魔女に技量がなければ、すべて滅びるのみ。
それは、アナが生きたあの世界のように、二度と戻らないものとなる。
そのようなトーラが現れたのならば、初代トーラの世界を守っているルタは許さない。
これはルカが書き綴った『領主の書』にある言葉だった。ルタが現れるのは、その時だけである。
しかし、ルタがこの世界にとっての正義かと言えば、またこれも違っていた。
ルタはただ、最初に戻すだけ。
ルタが生まれた、初代トーラの世界へと。
故に、ルタは『魔女』なのだ。決して我らにとっての『正義』ではない。
そのルタが現れた。
ルオディックは眠れずに、教会へやってきていた。
カーテンの掛かっていない出窓からは、月の弱い光が青く染められ、白磁の女神の手に受け止められている。その白磁の女神は、双子の妹ルカに模したものだとは言われている。
しかし、同時にルタでもあるのだ。
そう、初代トーラの時を守る女神として、それは『トーラ』を祀るとされてきた。しかし、その真実を知るものは、領主ないしその跡目のみ。
ルオディックでさえ、跡目候補として認められた後にしか、知り得ぬことだった。
そんな場所に逃げ込んだあの魔女。
どうして、人間の領域へと逃げてきたのだろう。
ゴーギャンの足の向きは、森へと向かっていたのではないだろうか。
たとえそうでなくとも、どうして村へと逃げなかったのか。
ならばゴーギャンは、追いかけなかっただろう。
足の痛みまで押して、どうして彼女は危険のある方向へと向かってしまったのだろう。
ルオディックは蒼白い光の中で、頭を抱えていた。
銀の剣を持つ者は、ルタなのだろうか。
ルタが現れた時のみ、クロノプスは魔女を裏切る。
いや、『魔女』の望むものを与えるのだ。
☆
リディアスとワインスレー諸国を分断するように流れるマナ河。
それはかつて三月山の起こした噴火によって生まれたとされている大河である。
そして、その河は唯一、二つの国を繋ぐものでもあった。
リディアの国からトーラの国へ。
かつて、トーラに願い乞うために、橋を渡った人間達のように。その河には、両国を繋ぐ船が出ているのだ。
その船上で、ディアトーラの領主であるビスコッティが妻のルフィーユを探していた。
トーラが現れたのではないか、そんな出来事があった。いち早く動きたかったが、焦燥をリディアス国王に見せたくなかったビスコッティは、すぐにディアトーラへ向けて手紙だけを送った。
ディアトーラに魔女が現れたことは、その後に受け取ったダルウェンよりの手紙で知っていた。
魔女がディアトーラに現れたということは、妻であるルフィーユも知っていた。しかし、お互いの手紙自身はすれ違いになっている。伝えたいことは伝えてあるが、予測以上のことが互いに起きたことは確かだ。
実家であるリンディ家では、あの不安定な様子は見せなかったルフィーユだったが、リディアスの首都ゴルザムを出た辺りから様子がおかしくなったのだ。
『あなた、あの子、うまくやれていないのかしら。まさか、すれ違いでディアトーラに戻っていただなんて』
あの子とは、もう二十年もむかしに流れてしまった胎児だ。しかし、彼女の中でそれは成長し、リンディの遠縁へと嫁入りまでしているのだ。
『ねぇ、もし辛いのならば、戻ってくるように伝えてもいいかしら』
ビスコッティはそんな時、彼女に付き合うようにしている。
『そうだな。しかし、相手のあることだ。こちらで勝手には決められない』
ただ、今回はその『あの子』が『魔女』に重なっているように思えて仕方がなかった。
森に奪われたと噂される、本来性別すら分からない『あの子』を、ルフィーユは森から現れたという魔女に重ねているのではないだろうか。
そんな風にビスコッティは感じていた。
もちろん、ルフィーユはトーラのすべてを知らない。
しかし、人の願いを叶える力を持つ魔女であることくらいは、知っているだろう。
それに、その願いが必ずしも叶えられるものでないということも。
船内にルフィーユはいないようだ。ビスコッティは甲板に向かった。
リディアスにいる間はあんなに晴れていた甲板の空は曇っていた。ワインスレーに近づいてきているのだろう。ディアトーラは雨かもしれない。
果たしてルフィーユはそこにいた。
「あら、あなた」
まだ少し夢見がちな眼を向けて、ルフィーユが慌てるビスコッティに声をかけた。ビスコッティは強張っていた肩の力を抜いて、極力優しく尋ねる。
「何をしていたんだ?」
「空を眺めていましたわ。そろそろワインスレー側なのでしょうね」
その観察眼と言葉はずいぶんと落ち着いたと思える。しかし……。
「森から来たそのお嬢さんは、トーラなのかしら」
トーラだとビスコッティは伝えていない。だから、ルオディックと同じ蒼い瞳を大きく見開いた彼は、彼女を黙って見つめてしまった。
「私だってリンディ家の娘ですわよ。家の中の揺れくらい感じ取れます」
しかし、彼女はずっと不安定なのだ。
まるでずっとときわの森の中にあるような。
ふと、森の緑に呑み込まれてしまうような、そんな色を瞳に映す。
「ねぇ、そのお嬢さんは私の娘になってくれないかしら。森から現れたのならば、あの子の生まれ変わりかもしれない」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
思わず強く出てしまったビスコッティの声にも、彼女は動じない。
「その子が私の娘になってくれるのなら……ディックのお嫁さんでもいいわ」
ただ、強い光を帯びる、そんな瞳をビスコッティに向けるだけ。
「そうすれば、もう一度と我が子を失わずに済む。そうじゃないの? そうなれば、そのお嬢さんは、魔女じゃないんだもの……私の娘よ」
彼女も逃げられないことくらい、分かっているのだ。
だから、対岸を見つめ、少しでも早くディアトーラに戻ることを、ただ。
ただ、望んでいるだけなのだ。
そして、ビスコッティは、そんな彼女に真実を言えない重みを胸に感じていた。
リディアス出身の彼女に、ルタが現れた今回に限ればルオディックが奪われることなどないと、言えないのだ。
その魔女がトーラであれば、なおさらに。
魔女は魔女に求められるのだから。
ただ、共に灰色の空を眺め「ルオディックなら大丈夫だ」と言うことしか。
ディアトーラに伝わる領主の書は、血縁のみに伝えられるもの。さらには、役目を持つ跡目となる者のみにしか、伝えてはならないのだ。
そう、クロノプスの役目は、居場所のない時の遺児に、その居場所を与えること。
たとえ、それが我が子であっても。
魔女が時を変え、その居場所がなくなるというのなら、居場所のあるクロノプスが身代わりになるのだ。
だが、今回は違う。
ルオディックなら大丈夫だ……。
しかし、未だ船上のビスコッティは、我が子を信じるしか出来ないのも確かだった。














