『ときわの森に棲む魔女③』
魔女は、今ルオディックの背中で大人しくしている。
教会の扉を出たルオディックは、まずダルウェンを制した。何か言いたそうだったのだ。今、大きな声を出されると、やっとルオディックに気を許してくれたのに、すべてが水の泡になってしまう。
「怖がってるだけだから。心配ない」
その言葉だけでも、背中にいる魔女の体が強ばる。
「とにかく、足の治療が先だ。医者を呼んできてくれ」
まだ何か言いたそうなダルウェンを睨み付け、ルオディックは静かに口調を硬くした。
「これは、命令だ。急げ」
「……承知しました」
苦渋の表情を浮かべたダルウェンの後ろ姿を眺めながら、ルオディックはやるせない溜息を付いてしまった。
決してダルウェンを嫌っているわけでも、自分の権力を振りかざしたいわけではないのだ。
「大丈夫か?」
魔女が背中で頷いたことが分かり、もう一度息を吐いた。
どこか……こんな自分が彼らを使う立場にあることが、辛いと感じてしまう。
降りられない、と叫んだ魔女を迎えに行ったルオディックは、その足の具合に驚いた。
右足首は左のそれよりも倍くらいに腫れ上がっており、窓を通ってくる蒼い光の中でも、その色が尋常でないことが分かった。
このまま放っておけば、腐って斬り落とさなければならなくなるんじゃないかと、思えた。
驚きと怯えの表情のまま、ルオディックから距離を取ろうとしている彼女の頬に傷があった。すでに乾いてはいるが、まだどこか火薬のにおいがするもの。
ゴーギャンのものだろう。
梯子は、単に落ちたのか、自分で落としたのか、それは分からなかったが、魔女が必死になって梯子を登り切ったことも分かった。
ルオディックには謝るしか出来なかった。
そんなルオディックの頭に、魔女の手が乗せられた。
「あなたは、悪く……ない……でしょう?」
と、声を震わせながら。
それなのに、どこかすべてを見透かしているような、そんな緑の瞳が月光に昏く光り、彼女の『魔女』を深めていく。
その後、カーテンを補助紐のようにして魔女を横抱きにしたルオディックは、やっとのことで梯子から降ろすことが出来たのだ。
カーテンを失った出窓から差し込む光が、女神像の掌をひときわ蒼く染めていた。
そう、何か願うのならば。
―――どうかこの魔女が無事であるように
今も背中で震える魔女は、足の痛みだけで震えているわけではないだろう。一応は大人しく背中にいるが、ルオディック自身のことも、恐れているに違いないのだ。
そう、この魔女は悪さをしたわけではない。ゴーギャンのように、恐れにかまけて、相手を傷つけたわけでもない。
そう、ただ、逃げただけの魔女だ。父に確認せずとも、戻せば良いはず。
領民が騒ぎ出す前に。リディアスの耳に届く前に。
森の奥にある『魔女の村』でひっそり無事に……。
……彼女たちはそこでしか安心して生きられないのだから……。
館の扉まで辿り着くと、今度はターシャがランプを持ってルオディックを待っていた。
おそらく、ダルウェンと同じ表情を魔女に向ける。
ルオディックは、それが嫌だった。
どうしてなのかは、やはり分からない。
「お帰りなさいませ。坊ちゃま」
「ただいま……すぐに客間を整えてくれないか?」
「もう、整えております」
思った通り、ターシャは優秀で声色は硬くなっている。それは魔女と同じ恐怖から。ターシャもダルウェンも、ルオディックを心配しているが、根幹は自身の恐怖からの言葉である。だから、魔女と彼ら自身が同じであると思いたくなくて、こんなことが言えるのだ。
「坊ちゃま、本当にそれを館の中に入れるのですか?」
「足を怪我している。医者も呼んでいる。ときわの森にこの状態の者を、この時間に帰せるとでも言うのか?」
しかし、ターシャが怖がる理由もルオディックは知っている。理解もしていた。
ディアトーラの人間は、魔女を恐れているのだ。
それは、クロノプスの者も例外なく、恐れであり畏れであるのだ。
魔女自身が危害をもたらさなくても、魔女を追いかけるリディアスがある。
大国リディアスが、怨敵である魔女をディアトーラが匿っているとなれば、どんな侵略を受けるか分からない。魔女と結託したなどと因縁を付けられれば、この小さな国では勝ち目はないのだ。
ルオディックだって、ちゃんと分かっている。
「だから、ターシャももう帰っていいよ……。医者が帰ったら、外門の鍵は閉めるから」
ルオディックは立ちんぼのターシャを残して、先に領主館へと入った。
外門の鍵を閉める。
それは、魔女が町へ降りていかないために。魔女の対応はクロノプスの役割だ。
ディアトーラの元首であるクロノプスは、しかし、魔女に仕えている。
ディアトーラで信仰されている教えには、この世界は『トーラ』という魔女が創ったものだと書かれている。その一つを与えられているクロノプス家。
この教えに則れば世界にある国々の元首は、すべて『領主』となる。
もちろん、ディアトーラはそんなことを他国に押しつけたりはしない。理由はいくつか挙げられるが、大きくは、トーラが世界的に見て『魔女』とされているからであり、ディアトーラでも同じく彼女を完全に神聖化していないからだろう。
その考えは、魔女を積極的に狩り続けるリディアスを筆頭に同じであり、トーラは人の持つべき力ではないというものが、根底にあるのだ。
ただ、クロノプスが魔女を『元首』クロノプスを『領主』として、固執する理由は、ディアトーラ初代領主が、その魔女トーラの娘のひとり『ルカ』だと言われているからだ。だから、教会の女神像は、その『ルカ』を模しているとも言われている。
彼女は言った。
「この世界に存在する魔女のほとんどは、トーラの被害を受けた者たち。そんな者たちが迫害されない村を作りましょう」
と。
「だから、彼女たちの対応はここで留めます。魔女が欲しがるものは、与えなければなりません」
そう、たとえそれが我が子でも。
これは、本来クロノプスだけに課された言葉だ。
トーラは人間の願いを受けて、世界を叶える。しかし、中には新たな世界に適応することが出来ない者がいる。
それが、時の遺児。
彼らは、性別・年齢問わず存在するが、中には時をうまく越えられず、容すら変形していることもある。
魔獣のかたちもそのひとつとも言われているが、人を呪い積極的に攻撃する魔獣と違い、時の遺児は、トーラが過去を書き換える以前の世界に生きていた人間であるだけで、人間と変わらないものを指しているのだ。
人間の願いを叶えたトーラによって居場所を失ったものたち。そして、この世界の存在しながら、『存在』を持たない者。だから、人の気配を頼りに人間を襲う魔獣は、時の遺児に気付きにくい。
しかし、トーラを怨敵とするリディアスは、その時の遺児ですら魔女として狩りの対象にしているのだ。
だから、やはりルオディックには『悪』の居場所が分からなかった。
そして、正義の居場所も。
ディアトーラは魔女を匿っている。しかし、居場所を与えただけで、その村から出ることを良しとしない。
ターシャに整えられた客室は、ルオディックにとって呪われた部屋だった。その部屋はまさにクロノプスが子を魔女に奪われた部屋なのだ。そして、ルオディックの目の前で、ソファの上で俯いたまま座っている魔女は、その時の遺児なのだろうか、と彼は考えていた。
それとも、薄い緑の瞳は、トーラのものなのだろうか。
トーラの瞳は緑。その緑はいかな色なのだろう。
そして、ルオディックは、足を怪我したその魔女を見つめた。
「痛むか?」
魔女は頷きかけて、頭を振った。
真実なのだろう。痛みを感じなくなってきているのかもしれない。だから、別のことも尋ねる。
「頬の方は?」
本当はなぜ森を歩いていたのか、それを尋ねたいのだ。
しかし、彼女の様子を見ていると、尋ねられなかった。
「少し……」
頬の傷もまだ痛む、そんな彼女に尋問のようなことは出来ない。とにかく、今は落ち着いて、信頼してもらうところから……。
それなのに、扉が勢いよく開かれた。
思わず構えてしまったルオディックと、跳び上がった魔女の視線の先には、鬼の形相のターシャが立っていた。














