『ときわの森に棲む魔女①』
昼下がりにターシャがお茶と焼き菓子を持ってきた。
「少し休憩されてはいかがです?」
「あ、あぁ、ありがとう」
頭痛はすっかり治まっていた。だから、今のうちに書き仕事は終えておきたいのだ。
「これを終わらせたら、休憩するから……」
そう言って、ターシャの表情を眺める。その顔はあまり嬉しい方向へ向いていない。
あぁ、お茶が冷めるのを心配しているのかもしれない。
だから、ルオディックは彼女にもう一度伝える。
「ポットのまま置いておいてくれたら、それが冷めないうちには終わらせるから」
「……承知しました。だけど、あまり遅くならないでくださいませ。渋みが出てしまいますので」
あぁ、そっちの心配もあるのか……。
「気をつける、ありがとう」
ルオディックの方がターシャを使っている立場である。しかし、なぜか、ルオディックにはどんな相手の表情でも気にしてしまう癖があるのだ。
それは、他人を信頼したことがないような、薄情な気持ちにも似ていた。
しかし、もうひとつ。どうしてか、誰かの表情をよく気にして、もっと話をしてほしいと願っていたような……。
すると、ふと頭痛が蘇った。
それは蹲るほどのものでもない、そんな柔らかなものだった。
いかに使用人であっても、いかに上に立っていようとも相手の表情を読まなければならない事態は、いつでも起こりうる立場だ。
それは、おそらくこれからルオディックが参加しようとする国家同士の会合など、そんなことしか気にしない場所かもしれない。普段贅沢三昧に浸っている貴族連中でさえ、その中で話される内容次第で、力を試されるのだから。
踊らされれば、ただ滑り落ちるのみだ。
そう、命でさえ、落としてしまいかねない場所へ、ルオディックは行くのだから。
だから、……それは別に……。
書き物に視線を戻す。
領内での収穫数と領民のために使われる資金、そして、資金稼ぎのための交易相手へ使える収穫物の羅列。
ルオディックが仕訳けたものを領主である父ビスコッティが再考する。
その繰り返しをしながら、ルオディックは領主としての知識を付けていく。
それで、いい……。
一息ついて、カップに入れたポットのお茶は、ターシャが言ったように色が深く濁り始めており、渋みが増していた。
「だけど、今はこれがちょうどいい」
考えるよりも口に出す方が、頭痛が遠のく気がしたのだ。
考えるよりも、口に出してしまった方が、……。
真実になるような気がするのだから。なぜか慣れないと感じる事務仕事で疲れた頭には、少し苦い方が良いのだから。
息を大きく吐いて、窓を振り返ると西日が目に痛かった。
ゴーギャンは帰ってきたのだろうか。
さすがに遅い、と感じたルオディックが立ち上がり、窓辺へ向かおうとした時と同時に、扉がノックされ、低い男の声が続いた。ダルウェンだ。
「坊ちゃま、失礼します」
声に続き扉が開く。
体格の良い朱夏の中にある男、ダルウェンが、皮のベストを着込んだ狩人の男を背中に連れて現れた。ゴーギャンだ。
「あぁ、ゴーギャンを連れてきてくれたんだな」
「えぇ」
ルオディックの言葉にダルウェンが答える。しかし、その様子がルオディックには、それが『間』と映る。
「どうしたんだ?」
ルオディックはそんな『人の感情』の裏を読むことに長けている。ルオディックとして、社交界などで鍛えられた覚えもなく、留学していたリディアスですら、穏やかに過ごしていたはずなのに。
「何かあったのか?」
ダルウェンは、まだ年端もいかない、自分の年齢の半分もないはずの若い跡目候補が己に向ける視線に、事実たじろいでいた。そして、ルオディックもそれを逃さない。
「あったんだな?」
畳みかけるように続けられた尋問に、ダルウェンが、ゴーギャンに目配せをし、声を出す。
「いいえ、大きなことは。仕留めた獣の数が多くなってしまったそうで、ゴーギャンが懺悔を望んでおりまして。教会の鍵をお貸しいただけたらと、参りました」
わずかに揺れたダルウェンの仕草に、ルオディックは、然もありなんという体で、柔らかに微笑んでこう言った。
「気遣いはとてもありがたい。だが、懺悔に付き合うのは、私の務めでしょう。……だったよな? それに、そもそも、まだ鍵は開いているはずだ。鍵を閉めるにはまだ早いんだから」
形だけ微笑むルオディックに、渋い顔をしたダルウェンが、それでも彼の仮の上司に「それが、どうしてか鍵が掛かっておりまして」と頑なに重ねた。
そのダルウェンはすでに落ち着きを戻していた。しかし、彼も知っていた。このような視線を向けるルオディックからは逃れられないと。領主跡目候補は、ただ沈黙を彼に向け続けた。おそらく、次の言葉が最後。
それは、ルオディックの父に似ている。
決めたことは譲らない。そして、完遂させる力を持つ。
ビスコッティ様は、そんなお方だ。
「まったく、不思議な話だ」
冷淡に告げられたその言葉には、わずかな怒気さえ含んでいた。この若者はいったいどこでそんな技術を身につけたのだろう、そんなことをダルウェンに思わせながら。
「分かりました。私から話しますので、一度ゴーギャンは家に帰らせます。そのお時間だけいただけますか」
「それで間に合うんだな?」
ダルウェンは、息を呑んで頷いた。
☆
カタン……。
落とした梯子はそのまま石の床にぶつかり、一度だけ跳ねた。
魔女はその様子を見た後、両開きの境界の扉を眺め、出窓を覆うためのカーテンを閉めて、息を潜めることにした。
それでも怖くて、窓に寄り添おうと体を動かすと、右足に激痛が走った。
靴の脱げてしまった右足首が赤く紫に変色している。
魔女は自分自身がどうして森の中を歩いていたのかを考えた。
しかし、覚えていない。
だけど、急に現れた男が、魔女の目の前で腰を抜かし、そして、突然、発砲してきた。
それは頬を掠め、魔女に恐怖を与えた。
だから、逃げ出したのだ。
それなのに、男は追いかけてくる。それなのに、木の根に足を取られてしまった。
きっと、転んだ時に捻ったのだ。転んだことで、余計に何も考えられなくなった。
逃げなくちゃ……と。
だけど、本当は、もっと別のことを考えていたような。
そう、魔女は、人間に会いに、森の外へ向かっていたはず。どうしてだったのか、思い出そうとすると胸が苦しくなる。
大切なものを壊してしまいそうで。
恐る恐るその右足首に指先を近づける。触れられるのを恐れるかのように、足を残したまま、脚が微かに跳ねた。
魔女が逃げ込んだ場所は、クロノプス家の庭にある教会の中。あまりにもよく分からないことばかり起きてしまった魔女は、混乱しながら、男から逃げ続けた。
そして、森から飛び出してしまった場所のすぐそばに、この教会があったのだ。
人間の気配はなかった。
男が何かを叫びながら追いかけてきていた。
選択肢はなかった。
魔女はその扉を閉め、錠を下ろし、その扉を叩く音から逃げた。
白磁の女神の掌が蒼く輝いて見えた。その蒼い光を差し込ましている場所が、今、魔女がいる教会の出窓だった。














