『世界は徐々に壊れていく③』
キラが連れてこられた場所は、研究所の方だった。キラの腰には、縄が結わえられており、いよいよ魔女罪を覚悟しなければならない。そんなことを思っていたはずなのに、案内された場所は、独房というよりも、休憩室や簡易応接室と言えそうな場所だった。
座りやすそうな椅子に机。小さな戸棚。
それしかない。ただ、キラの腰に結わえられたままの腰紐はその椅子に縛り付けられているため、完全に自由というわけでもなさそうだ。
扉が開かれ、別の看守が現れる。
「少し待つように」
その手には聖書があった。
腰紐は結わえられているが、手足は自由だ。逃げないと高をくくられているのか、逃げられないと高をくくっているのか。それは分からないが、聖書の意味は最後に罪改めよというところなのだろう。しかし、最後通牒にしては、緩すぎる気がした。
看守が出ていった扉は簡素であり、鍵は引っかけ式の内鍵である。いくら、縄を解く時間があるにせよ、いくらキラが逃げる気がないと悟られていたにせよ、笊過ぎる。
そうやって癖のようにして部屋を観察した後、キラは看守がおいていった聖書の表紙を眺めた。深い緑の表紙に、金の縁どり。そして、白文字でリディアスの古典文字が書かれてあるものだ。さすがにリディアスで教育を受けたわけでもないキラには読めない。
そんな風に思いながら、聖書を適当にめくり始める。キラの頭には何も入ってこない。古典文字が並ぶ聖書を正確に拾えるわけがなかった。
内容は大体知っているつもりだが、その文字からは何も分からなかった。
何分くらいそうしていただろう。キラは聖書をめくる手を止めて、人の気配を持つ扉を見つめた。
扉が開かれる。
そこにいたのは、傭兵時代の先輩衛兵とランド・マーク・フィールドだった。
「お久しぶりですね。クロノプスの御曹司殿」
キラの感じる絶望と対比するようにして、ランドがどこか嬉しそうにその名をキラに告げたのだ。
☆
人払いをしたランドはキラと向き合い、ただ静かに着座する。微妙に斜に座っているランドは、もう笑ってはいない。静かにキラを見つめ、なにかを諦めたような息を吐き出した後「聖書は読まれましたか」と、尋ねただけだった。
読み込んではいない。そもそも古典文字の場所は読めない。ただ悪戯に頁を繰っただけだった。それを素直に伝えるべきなのか。リディアス出身ではないという証明にならないだろうか。
一呼吸、キラは考えた。いや、キラが知りたいことは、キラの過去がどこまで暴かれているのか、だ。そもそも、今のキラにランドを欺ける気がしないのだ。キラはそんなふうに自分自身を冷静に考えた後、彼に答えた。
「そもそも、おれがディアトーラの御曹司だとすれば、そんなものを読ませようとする方が間違っているだろう? 古典文字のリディア聖典なんて」
反発だけの言葉は、余計に危険だ。だから、今ランドが持っている事実を、並べようと思ったのだ。ジャックの基本でもある。
その答えにランドは「まぁ、そんなに怒らないでください。約束を守れなかったのは、あなたの方でしょう?」と続けた。
唐突に出されたランドとの約束は『ワカバを守れ』というあの約束だろう。確かに、あれが約束というのであれば、キラはワカバを守れなかったことになる。どうして、そんなことを言い出したのか、まったく分からない。何か意味がある言葉なのだろうか。
しかし、それを言うならランドだって、……。
「お前だって協力するって言っただろうっ」
吐き出された言葉に、キラ自身が驚いた。
さっき、知りたいことは、キラの過去がどこまで暴かれているかということだ、と自分自身に落とし込んだばかりなのだ。ランドの言葉に自分がこんなに取り乱すことなど、想定していなかったのだ。そんなキラを前に、ランドは落ち着いた様子を見せる。
「私にも立場というものがあります。そして、その立場があるから守れるものもあるんですよ。そして、あなたは、今ご自身が置かれている状況をまったく把握出来ていない」
「充分に把握しているよ」
充分に把握していた。キラは、魔女を追いかけて魔女罪が適用され、ここに呼ばれている。おそらく、進むべき道は、公開処刑場だ。
「いいえ、あなた自身が把握しているのは現状のみでしょう。いいですか、ルオディック・w・クロノプスという名は、リディアスが総出で調べ上げたから出てきた名前ではありません」
ランドのこの言葉は、キラをどこかに嵌めようとしているのだろうか、という警戒心から、ランドのその言葉に次の句を呑み込んだ。
いや、クイーンがそこまで調べ上げてキラを売ることはないはずだ。キラは一度もルオディックとして振る舞ったこともない。ディアトーラに近づいたこともない。
たったひとりの取るに足りない、しかも地に落ちたようなジャックの過去を暴く手間を考えれば、キラがジャックだったと一言、リディアスに伝えれば済む。
そんなキラを見たランドは、衝撃的な言葉を発した。
「あなた自身が書いたんです。ここの傭兵としての勤務を志願した時に」
「嘘だ」
口を衝くようにしてそう言ってしまったキラに、ランドはもう一度最初の言葉を放った。
「聖書は読まれましたか?」
手元にある聖書に視線を落とす。違和感がある。リディアスの古典文字が、読めた。視線を上げると、黒い眼鏡を外したランドがいた。その瞳は空の色。リディアスに多い特徴である。すべてを沈める海とは違う、光を生み出す空色。その瞳を持つ男が穏やかに話し始めた。
「傭兵になる以前、あなたはこのリディアス国立研究所付属学校へ通っていました。だから、リディアスの歴史などもすべて修めてきたはずです。もちろん、古典も。卒業は、今年。上級学校への四年に進まず、傭兵という道を選びました。本来なら衛兵でも良かったのかも知れませんが、ワカバさんは、その違いなど知らなかったのでしょう……いえ、これもまだ仮初めなのかもしれません。今は過渡期」
「どういう……いや、ワカバは。ワカバは生きているのか?」
「分かりません」
首を横に振ったランドに、前のめりになったキラを結わえる椅子が大きな音を立てた。
「気を付けてください。あなたはまだ罪人ですから。……看守か衛兵が飛んできますよ。ただ、あなたが思うほどの罪人ではないでしょう。しかし、現在に至っても、彼女の姿はどんな形であれ見た者はいません。そして、銀の剣の勇者も現れていません。あなたなら、どう仮説を立てますか? 魔女に詳しいディアトーラ御曹司のご意見を尋ねたい」
あの高さから落ちて、生きているはずはない。しかし、もし、あの瞬間に過去を変えていたのなら。
ワカバがあの場所にいない過去を生み出していたのなら……。
銀の剣が使われていないのであれば……。いや、勇者とされる者が、彼女を殺した事実がないのなら。
「生きている……」
「同じ意見で安心しました」
キラはランドを見つめた。
「お前は、……」
「今は味方になれます。しかし、いつまで味方でいられるかは分かりません。時々どうしてこの眼鏡をかけ始めたのかすら、忘れそうになるんです。いいですか? 研究所内で、ワカバさんのことを覚えているのは私くらいになっています。おそらく、国中の人間の中で魔女がいたという事実以外、何も残っていないのではないでしょうか? ほんとうに人間の記憶とは、なんと儚く出来ているものでしょうね。たったひとりの少女が、全人類の記憶と過去を変化させてしまうのですから」
ふと、空を見上げたランドがまったく似合わない溜息を付いた。
「今までやってきたすべてを否定されるようで、本来なら怒りすら覚えても良いのかもしれません」
―――それなのに、私はなにに怒りを覚えればよいのかも分からず、太刀打ちすら、出来ない。
「だけど、抗いたくありませんか? 記憶がまだ残っているのならば。あなたは、彼女のこともはっきりと覚えているのでしょう?」
その問いに、キラは迷いなく肯いていた。














