『風の中にあるふたり⑦』
笛の音が追いかけてくる。ワカバは出来るだけ人間のいない方向へと走りたかった。だけど、その笛が響くたびにリディアスの兵が増えていく。
彼らはどこかワカバを警戒し、ワカバの行く手を遮り、追い詰めているようだった。
実際にそうだったのかもしれない。
訓練を受けている兵士たちが、何の訓練もしていないワカバの足に追いつかないわけがないのだ。しかし、それでもワカバの肺は限界を迎え、喉の奥からはヒューヒューという音を立て始めている。
足はもつれ、膝が崩れ、転びそうになる。
それを助けるのは、やはりワカバの傍にいつもあった風だった。
ワカバが転びそうになると、その風がワカバの体を支える。
風がワカバの時を進めていくのだ。
ときわの森で、ワカバに時を感じさせていたのも風だ。巨樹の葉を鳴らし、揺らし、零れる光を作り出す。しかし、そうやって助けてくれる風も、ただワカバの意思に従っているだけなのかもしれない。
ふと、そう思った瞬間に、やはり膝から崩れて大袈裟に転んでしまった。
無防備に打ち付けられた掌には、小石が刺さり、やはり体重がかかってしまった膝小僧は擦り剥けて、赤い血が滲み始める。
痛かった。
同じものが、流れているのだ。
『人間と変わらない』
ラルーの言葉は真実だった。
怪我をすれば痛いし、傷つけば血が出る。
今は、悲しければ涙も出るし、痛いと目が滲んでしまう。
それでも立ち上がらなければ、兵士が近づいてくるのだ。
「そのまま大人しく……」
兵士のひとりがワカバに叫ぶ。それでも這いずるようにして辿り着いた場所は、マンジュの果てだった。眼下に広がる崖だ。
途中で崩れ落ちている石橋は、過去の残骸だった。マンジュに住む者たちが、それを古代文明の一つとして、残しているもの。かつてあったその国は、この崖に崩れ落ちた。
再びワカバの中に過去が流れる。
その橋の向こうにはときわの森に続く道ではなく、魔女の住む城があった。
誰も知らないトーラの記憶だ。
この記憶を持つトーラこそ、この時間を生み出した『始まりのトーラ』なのだから。
人間たちはそのトーラに願いを叶えてもらうため、この橋を渡り続けた。そして、願いを叶え続けた人間は、死者のように彷徨い、生を貪るようにして求め始めたのだ。与えられた『生』が『死』と変わらないと気づいた人々は、やっと、その愚かな行為に気が付いた。
そして、トーラが危険だと認識した途端、その橋を落とし、鏃に火を付けてその城を燃やし尽くしたのだ。
それまでのことなどなかったかのようにして、すべてを魔女のせいにした。
ワカバを崖の淵に追い詰めている兵士たちは、ワカバと距離を保ったままだった。
そんな兵士たちと距離を取りたくて、一歩下がれば、もう続く道はワカバになかった。だから、彼らはワカバが投降するのを待っているのだろうか。
それとも、どのように捕まえるべきかを考えているのだろうか。
彼らの前にある魔女は、ワカバ自身も何をするか分からない凶悪な魔女なのだから、考えることは当たり前だ。
いつの間にか、人間の数は増えていた。兵士以外の野次馬も集まってきているのだ。それは、魔女見たさの好奇の目であり、排除の目であり、ワカバにとってとうてい気持ちのいいものではなかった。
ワカバはこんなにも痛いのに。こんなにも不安なのに。
誰も助けてくれない。
兵士の一人が民衆に向かい、再び叫ぶ。
「下がれっ。あれは危険な魔女だ」
そして、ひとりが一歩踏み出す。その腰の剣に手をかけて。
斬りつけられるのだろうか。
ワカバの鼓動が激しく胸を打つ。
出てこないで。そう思いながらも、過去に追い詰められたトーラの記憶がワカバに襲い掛かってくるのだ。ワカバであってワカバでない恐怖の記憶。不信の記憶が。
人間の願いを叶えるために生み出されたトーラでさえ、人間に殺された。
彼女たちの願いと引き換えに器として存在していたトーラは、ただ危険視されて殺された。
そんな彼女たちの記憶が、ワカバの『今』に重なる。
感情などなければ、それはただの映像だった。
涙さえ流れなかった。
ただ、そこにある願いを天秤にかけていたあの頃とは違うのだ。
たとえ、ワカバの死を望まれていたとしても、それを叶えるだけだったのだから。
必要のないものなのならば、たとえそれが自分自身であったとしても消してしまえばいいだけ。トーラとは、人間の願いを叶えるためにあるのだから。それなのに……。
兵士がワカバににじり寄る。
来ないで……。
ワカバが後のない背後を振り返ると、小石が崖の下に落ちていった。
落ちる音は、最後まで聞こえなかった。
崖は深い。逃げる道は途絶えている。
兵士がもう一歩。そして、ワカバに手を伸ばす。
いやだっ
兵士に向かって風が膨張し、彼を吹き飛ばす。
まるでワカバを守るかのようにして、ワカバの周りにある風がつむじを巻き始める。
人間など……。
人間など信用に値しない者。来るかどうかも分からない明日を信じて、ただ日々を生きている者。取るに足らない、小さきものたち。
ワカバはトーラではない。
そう、ここで生きている。死にたいとは思わない。
『人間と同じ』『願って』
ワカバの中でラルーの言葉がつながっていく。願っていいのなら、人間と同じなのであれば。
助けてくれるものは、使えるものは。
つむじ風だけだ……。
ねぇ、あなたが一番強くあった『時』を教えて。
人間のように願っていいのであれば、わたしは、こんな場所で死にたくない、そう思う。
だから、ワカバは風の過去を探った。時を触る。そして、掌握する。『過去』を『今』へと変化させる。
そう、あなたは『かまいたち』と呼ばれたこともあるのね。
そう呟く。
ざわめいていた兵士の群れの辺りから悲鳴が飛んだ。赤いものが見えた。
でも、あれじゃあ、殺せないわ。
『わたし』が、もっと大きくしてあげる。
野次馬はどよめき、逃げ出す者が現れる。秩序を失くした人間の群れが、罵声をあげ始める。
自分勝手にやってきて、自分勝手に逃げようとする。
人間は、同種であっても罵詈雑言を投げつける。
そんな者のために……
そんな、者、……の。
ワカバの周りには合図を待つ風が大きくなり荒び始めていた。
大きな風の渦に、兵士たちは動けずにいた。ワカバも動けなかった。人間たちの表情は恐怖と怒り。そして、風に濁る景色が滲んできている。
あの兵士は、引き摺られるようにして人集りの向こうへ消えていく。
悲鳴を上げた兵士は、大切な人がいたのだろうか。
その人は彼が怪我をしたことを悲しむのだろうか。
わたしみたいに、涙を流すのだろうか。痛いのだろうか。
だけど、風音と罵声、悲鳴と土を蹴る音。ワカバにはそれ以外は何も聞こえなくなっていた。景色も霞む。
望めば……。
ワカバは助かる。そして、ただ、人間が恐れるだろう悪い魔女になるだけ。
「ワカバっ!」
いるはずのない者の声が聞こえた。
視線を向けると、兵士たちに取り押さえられるキラが見えた。その拘束を一生懸命抜け出そうとする姿が見える。
キラ……?
どうして?
ワカバの揺れ動く不安定な感情に、増幅した風も揺れる。わずかに制御を外れて広がる。兵士たちの意識がその風に向かう。
キラが走って来る。
だめ……。
「来ないで」
気づくとワカバは、頭を振って、震えていた。このままだと、風はキラを攻撃する。
キラをわたしが殺してしまうの? それとも、悪い魔女になったわたしをキラが殺しに来たの?
魔女狩りの時に会ったあの男のように、人間を殺そうとすれば、きっと。
キラは銀の剣を持っていない。
だけど、ワカバはキラを殺せない。
キラは、ワカバを覚えていてくれることもない。
どんな形でもいい。
忘れないで欲しかった。
「わたし、ルオディックの願いを覚えているのっ」
もちろん、キラはその言葉に意味など見つけられないだろう。しかし、その言葉にキラの歩みがわずかに止まった。そして、吹き上がる風にキラが目を庇う。
ルオディックの姉、イルイダは今に存在し、彼らは同時に存在している。
そうだ。ラルーが描いた未来の延長線上に何があったのかは知らない。だけど、彼の願いを叶えていないワカバが消えてしまえば、イルイダが消えてしまう。
イルイダを確立させればキラは消える。ラルーが歪ませていた時間がワカバに完全に戻れば、きっとそうなる。
そして、気づいた。
どの過去にも存在しなかった『望まずしてトーラを持つ』ワカバが、新たな世界を作り出してしまったら、二度と戻せない過去があることに。
トーラ自身が生まれた過去は、『トーラ』であってトーラではないワカバには戻せない過去なのだから。
銀の剣とラルーが守る過去は、二度と……。
だから、ワカバは合図を待つ風に伝えた。
「わたしが落ちた後、何人たりとも後を追わないように。あなたは、優しい風になって受け止めてあげて」
と。
なにかが消えてしまうことを避けられない未来しかないのであれば。
彼を苦しめる記憶の中ではなく、別の記憶の中で、ワカバは彼に殺されたい。
今までのトーラと同じように、『人間』の願いをひとつ叶えたトーラが再び巡るのであれば、きっと、何も消えない。
そう、ワカバは願ったのだ。
そんな未来を。そして、そこへと繋ぎ紡がれる過去を。
『風の中にあるふたり』了














