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17 : 泡沫の夢

 初枕を所望した時。私の肌に触れた時。艶やかな口に笑みを浮かべた時。


 強気な言葉を紡ぐ貴方は、ずっと震えていた。


 浅ましい私には、その震えさえ愛しく、甘美な毒のようで。

 喜びのまま貴方の肌に貪りつこうとする自身を戒めるのにどれほど必死だったか、軽薄な言葉と震える体で私を誘っていた貴方は知らない。




 その日は、朝から翠様の様子がおかしかった。楽しそうにうきうきしていると思えば、一瞬の内に真剣な表情を浮かべたりと、忙しなく部屋をバタバタと走り回っていた。

 自分の前で着替えるのはやめてくださいと何度訴えても、『部屋が狭いんだからしょうがないでしょ。思春期の子にはかわいそうと思うけど、勃ちそうになったら念仏でも唱えてなさいよ。』と二の句も次げないような返答を受け取ってからは、彼女が服に手をかけた瞬間に後ろを向くようにしている。


 凹凸の一つも、曇りの一つもない、大きな大きな姿見は、貴族の花嫁道具にすらなりそうなほど立派であった。翠様にその話をするとポカンと口を開けて、『サントリでニイキュッパだったんだけど。』と呪文を唱えられた。

 こんな彼女の生活を目にする度に、彼女は現世うつしよの貴族より―――いや王族でも敵わないほどの生活水準を、贅沢とすら思わずに受け入れている事実に驚愕する。湯が瞬時に沸き、いつでもいつまでも温かい風呂に毎日浸かることなど、どんな大国の王族でも叶わない夢だろう。


 驚くほど鮮明に映し出されるよく磨かれた姿見に、次々と色取り取りの服でめかし込んだ翠様が映っていく。その姿を見て、何も察しないほど愚鈍なわけではない。彼女が意気揚々と玄関を出て行くのを、奥歯を噛み締めながら笑顔を浮かべて見送った。


 あんなに嬉しそうに出て行った翠様はその夜、まるで別人のように消沈して帰ってきた。

 明らかに不自然な表情を取り繕おうともしなかった翠様にただならぬ不安を感じた。こんな風に手負いの野生の動物のような翠様は初めてで、どうしていいのか対処に戸惑う。その戸惑いを敏感に察知されたのか、翠様が後で思い出せば自己嫌悪しそうな言葉を勢いのまま口に出していた。


 彼女になにかあったのはわかる。だけど、何があったのか聞きだしていいのかわからない。話したければ話すだろうが、意地っ張りな彼女が自分から話せるのかは不安になる。それでも今は一人にしたほうがいいだろうと退室を告げた時、彼女の瞳が語っているものをはっきりと気づいてしまった。


『おいていかないで』


 ずるい人だ、と何度思っただろう。

 貴方が意図していないその言葉が、その視線が、私にとって全て毒に、そして薬に変わる。


 疼くように響く胸の痛みと、暴れ出しそうになる猛烈な衝動を必死に押し殺す。

 貴方の心をいつもの様に戻せるように。これ以上私に見せた弱さを、後で悔やまないように。私は思いの丈を込めて飲み物を用意した。落ち着けるように温かく甘い、そして温まるようにしょうがと、彼女の大好きなすりおろしリンゴを入れた蜂蜜湯だった。


 その何が、貴方を不快にさせたのかはわからない。

 ただ気づけば私は貴方に組み敷かれていて、およそ女人が口にするようなことではない言葉の数々を茫然と聞いていた。

 私は、この状況にひどく戸惑っていた。彼女にこんなことを言わせてしまうまで追い込んだ者に、彼女にこんな言葉を吐かせてしまった自分に、そしてこの状況を心底喜んでいる浅ましい体に。吐き気がするほど、自分の心は歓喜に震えていた。


 彼女の微かに震える手が明確な目的を持って自分に触れていた。その目に欲情は薄くとも、欲望は見て取れた。彼女は今、一人でいないための理由探しに必死だった。誰でもいいから、心が溶けるほど傍にいてほしかったのだろう。震える体を隠すように強い口調と艶美な視線を強める。

 王族の務めだと、初床を得たのは精通した13の頃だった。それからは定期的に夜の相手が充てがわれていた。同じ女は二度はなく、周りの人間が用意した女を対して興味もなく、ただ義務と体の欲望のままに抱いた。戦場に出てからはその欲望が強くなり、自分よりもうんと年上の部下たちと共に女を抱きに出かけることも珍しいことでは無くなっていた。


 翠様にとって今、自分がその相手になっているだけのこと。


 たまたま手の届く範囲にいて、いずれは別れると分かっているので後腐れの無さも都合がよくて、彼女の相手を務める許容範囲に入っていた。

 そんな理由だとは分かっていた。自分が求められているのではないと。彼女と自分が触れる理由は、天と地ほども違うのだと。それでも、彼女に触れられるのなら、彼女に己を刻めるのなら、求められるのなら。それもいいかもしれないと流されそうになった時に、聞こえた。


「ならいいじゃん。一回ぐらい。」


 わかっていたつもりだった。雰囲気に流されている彼女は、自棄になっているだけだと。そもそもが永続的に続く関係上にいない自分たちが、その先を求めてはいけないと。自分が、責任を持って彼女を大切にできないのだと。その何よりも背負いたい責任は、自分には求められていないのだと。

 自暴自棄になった彼女を一時的に慰めることはできても、傷を完全に癒すために傍に居続けることは決して許されないのだと、強く突きつけられた気がした。


 だからこそ、彼女を受け止められなかった。


 彼女が冷静になった時にどう思うかが、手に取るようにわかった。彼女は自分に、誠実な姉のような、心優しい家主のような、気まぐれな飼い主のような責任感を感じている。その自分を、勢いで手籠めにしたと分かった時、その先を見据えられないとわかった時、彼女の心は深く傷つくだろう。


 きつい口調は、弱い心を隠すため。

 意地っ張りな言葉は、気遣いの証。


 そんな彼女のことを知っているからこそ、今抱けば傷つくのは彼女だとはっきりとわかった。


「私は翠様に生涯の忠誠と愛を誓いました」


 大丈夫なのだと。こんな真似をしなくても、この常世とこよにいる限り傍にいて、貴方の味方で居続けると。貴方の心が傷つくような真似はしたくないのだと。言葉を尽くしたいが、それは成らなかった。自分はいずれ、こんなにも傷ついた翠様を置いて帰る身だ。捧げた忠誠と愛は生涯変わらずとも、ずっと傍にいて慰め続けることは出来ない我が身だからこそ、たった一度の過ちを犯すわけにはいかなかった。彼女の健やかなる心を、守りたかった。


 想像していなかっただろう私の拒絶に、目に見えて怯えだした翠様をどうにか慰めたいと、今まで一度たりとも触れたことのなかった彼女に触れた。彼女は温かく、儚く、信じられないほど愛しかった。


 これが恋なのだと、貴方に捧げた愛なのだと。涙が零れそうになった。


 好いた相手にふられたのだと、だから代わりが必要だったのだと、慰めが必要だったのだと告げる貴方に、悔しい思いを咬み殺す。抱かなくてよかったと、心底思った。


 淋しさからでも気まぐれでも、貴方に私を刻めるのならいいと思った。けれどそれは、誰かの代わりだけは嫌だった。私を、覚えていてほしかった。


 笑みで押し止めたその感情を逆なでするように、その舌の根も乾かないうちにその男を擁護した。

 貴方に涙を流させるその男は、確実に世界一の大馬鹿野郎だともう一度告げてやりたい気持ちを、翠様の涙に免じて呑み込んでやった。


 一緒に寝ないと家を追い出すなどと、本来ならば脅しにもならないことを言われた時、自分の衣食住の心配よりも、このままの彼女を一人でいさせることへの心配が勝った。


 そしてそんな弱気に付け込んだ翠様の思惑に見事にはまり、この激流にも似た慕情を抱えたまま同衾することとなった。

 翠様は、その夜。恋しい男を想いながら、私の背でずっと涸れぬ涙を流し続けていた。




***




 それから、私の何かを押し留めていたものが何処かへ吹き飛んでしまったのを感じた。

 初めて触れたあの愛しさが忘れられず、自重しなければと思っていても気づけば彼女に触れていた。

 翠様はそれに注意することも、不審がることもなく、まるで初めからそうであったかのように自然と受け止めていた。


 翠様は以前から全く私を異性として意識していないかのようにあけっぴろげだ。同世代のどんな女性たちにも見られなかったその姿に、私も既に慣れてしまっていることに気付いた。

 王子と言う立場から、私に触れてくる女性など今は亡き母と、乳母ぐらいのものだった。昨今では、着替えや入浴は軍に入ったころから一人で行っている為、女官にも触れられることなどほとんどない。催し物がある毎に衣装を作り直すため、年に数度仕立て屋が触れるが、それも絹の手袋越しに触れるか触れないかと言う僅かなものだった。

 貴族の女性であればなおさら、ハンカチを渡しただけでも求愛にとられてしまうような世界だ。自分にあからさまに触れてくる女性など、王城にも軍にも魔法塔にも存在しなかった。


 それが、翠様と言えばどうだろう。

 基本的に呼び付ける際には手首を掴み引っ張って歩く。気まぐれで茶碗を洗うのを手伝ってくれる時に、狭い調理場のせいで腕と腕がくっついていても気にした風はない。これが彼女の当り前な生活なのだと、否が応にも実感させられる。彼女はそこに感情も意図も乗せることはなく、ただただ自然な態度であったからだ。

 しかし、どこまでも自然で無意識な流れの触れ合いにも、一つだけ例外がある。彼女が、明らかに意志を持って触れてくるときがあるのだ。


 ピィちゃん、と私の頭を撫でる時だけ笑みを浮かべながら私の頭を掻き回すのだ。その事が、非常にうれしい。


 ピィちゃんであるという“おかめいんこ”を検索してみた。“ぐーぐるせんせい”が教えてくれた“おかめいんこ”は、まるで私とは似ていなかった。髪の色も、こんなに真新しく染め上ったばかりの布のような、鮮やかな黄色ではない。彼女が喜んでくれるのなら、ピィでもポォでもなんでもいいと思ってしまっている自分がいた。そんな時は、現世(うつしよ)に帰ってすぐに現実に適応できるか不安になることもしばしばだった。




***




 ある日の穏やかな昼のこと。

 いつもより早く帰宅した翠様が、失礼千万な男を連れて帰ってきた。あまりの態度と翠様の対応から追い払うべきかと動き出した自分を止めたのは、今まで男に対して出て行けと言っていた翠様その人であった。

 渡された金子と不自然な笑みに、自分は彼女にとってその男よりも気を使わなければいけない存在なのだと突きつけられた時、常世(とこよ)を一人で彷徨っていた時を思い出した。何もわからぬ世界で魔法も使えず、一人きりになったかのような空虚な切望を抱えて歩いていたあの時を。

 今は、道を走る“じどうしゃ”も、買い物に行くべき“すーぱー”も“も知っているというのに、あの時と同じか―――それ以上の悲しさで胸が締め付けられていた。


 私は、いつかこの人の元から去ると知っていながら、この人の一番で居たかったのだ。まだ何の覚悟も持てず、決心もついていない自分には、不相応な望みだったことだろう。それでも、自分を追い出してほしくなかった。あの家は、自分にとって砦のようなものだった。あそこから追い出されるぐらいなら、あの男を快く招き入れたのに。


 その後悔が筋違いなものだったと知ったのは、家に入って線香の匂いを嗅いだ時だった。私と翠様が線香をあげるのは、一日に一度朝にのみだった。しかしまだ背の高い線香は、灰色の帽子を被っている。ほのかに漂う煙が、つい今しがた火をつけられたことを物語っていた。


 あの男の所業を謝罪する言葉も、他の男を慕っているという事実も、自分は恋愛対象外だという実状も、全て受け入れたくなかった。それでもそれが、そこに漫然と横たわっている現実だった。


「あんな無理やりな理由つけて線香上げに来るぐらいなら、私にそう言えばいいのに。男ってまじ意味不明」

「男には、言えないことに対する理由があるのです。」

「アルフォンスもあるの?」

「私にもございます。とても大事なことを言いたいのですが、理由が邪魔をして言えません。」


 私の決意を込めた言葉に、翠様は平然と『言えるようになるといいね』と他人事のように告げた。


 それが、貴方に告げる愛なのだと。救世を前に告げることが叶わないのだと。王族としての責務を放棄出来ないのだと。貴方に本当に告げられる日がくるのか、私はわからないでいた。

 どうしても、私の中で決断出来ないことだったのだ。そんな欲を持ってしまえば、未練が残る。未練は弱さとなり、魔王に付け入る隙を与えるだろう。その事が怖かった。私はまだ、なにも覚悟を決めれていないのだから。




***




 オーディンが逝った。次いでフリッツが。その次に、ロイ、そしてコンラート。私にとって面識のある人間が、次々敵の毒牙にかかって現世(うつしよ)から常世(とこよ)へと旅立っていった。それならば、彼らは今、この世界にいるのだろうかと途方もないことを考えた。


 その様を見る翠様の顔面は蒼白で、手の震えが止まらないようだった。撫でさする体には極度の緊張のためか、信じられないほど力が入っていて、今にも気を飛ばしてしまいそうだと感じた。それなのに、気丈にも私の心配をするその姿を、聖女だと言わずになんと言おう。私の目を両手で覆い、ぴったりと体を寄せて私の苦しみを吸い取ろうとしてくれている彼女こそが。彼女が聖女足らんとするのならば、この世にきっと聖女など存在しないに違いない。


 あぁ、私は、彼女の元に飛んできたのだと唐突に理解した。


 姉君の遺骨を、魔法陣は聖女と認めたのではない。彼女のこの気高い心を、魔法陣は聖女だと認めたのだ。その証拠であるかのように、錆び付いた聖物は翠様の手により仏壇にひっそりと納められている。私は、自分の推測に非常に満足した。




 苦境は続く。乗り越えたと思った試練の先に、さらなる試練が待っていた時、私はつい勢いのまま本気で匙を投げようとした。それほどに、12回の死闘は私の神経をすり減らし、また非現実に慣れてしまうには十分だった。


 しかし、魔王よりも恐ろしい翠様の喝により、再び指揮棒を揮う。どさくさに紛れて取り付けたご褒美は絶対にもらおうと決心した。

 これ以上どう臨めばいいのか頭を抱えたくなった時、翠様が私をいざなう場合の常であるように手首を引っ張った。


「みどりさまっ?!」

「はい、正座!火をつけます。お線香に火を移します。ブッ刺します。はい、手と手の皺と皺を合わせてー!がっしょー!」


 身に沁み込んだ礼式を取る翠様と共に姉君に向かって手を合わせる。


「お姉ちゃん、お姉ちゃんが聖女様と言うのなら、どうぞどうぞ。皆をお救い下さい。どうぞお姉ちゃん、お救い下さい。アルフォンスを、助けてください。」


 その言葉に私がどれほど強く、貴方を尊く愛しく思ったか、きっと何処までも気高い貴方は一生知ることはないだろう。


 貴方が毎朝姉君に語りかける内容は、朝ごはんの支度をしている自分にもずっと届いていた。今日は眠いだの、“じょしあな”の服が気に入らないだの、教授が寝込んでしまえばいいだの、不謹慎でいて欲望のままを吐露する様は、真にただの姉妹の会話であった。

 いや、真かどうかはわからない。何しろ自分はこんな風にあけすけな女性同士の話を聞いたことが無かったからだ。それでもわかることは、翠様は姉君に対して常に甘えていて、そして仏壇にいる姉君はそれをずっとただ微笑んで聞いていた。

 その甘えの中には一度たりとも姉君に何かを要求するような言葉は存在しなかった。


 その翠様が、およそ初めて。私の為に。神頼みをしてくれたのだ。


 なぜこうも、私の心を掻き乱し、そして今までにないほど穏やかな気持ちにさせてくれるのだろうか。

 自分の気持ちをこれほど正直に、貴方に伝えたことがあっただろうか。打算から始まった私の性格が、貴方との関係が、いつしか初めからそこにあったかのようにピッタリと型にはまるように、私と貴方を繋いでいた。私は今、胸を張って言えるだろう。これが、私なのだと。




***




「コンラート!ロイ!フリクリ―――!!」

 翠様が歓喜の雄叫びを上げる。その声に、直後に降ってきたその重みに、私は溜息ともつけぬ震える息を吐き出した。


「…皆、無事であったか…」


 震える私たちを温かく包み込むように、聖女が光の中から降臨した。


『世界の為にその身を捧げた、誇り高き英雄たちよ―――その祈りに報い、今一度私の祝福を授けましょう…。貴方達が、無事に愛しい者たちの元へと帰れますように―――…。』


 より一層の感動に言葉も出ない我々であったが、ここで立ち止まっていてはいけない。残り少しで、魔王を打ち払うことが出来るのだ。では、その後は?見ないように、考えないようにしていた現実に今少し目を瞑って、私たちは更に駒を進めた。




***




 淡く光りだしていく自分の体に気付いたのは、彼女の見開かれた瞳に映ったきらめく光を見たからだった。


 ついに終わりが来たのか。この夢のような、時間の終わりが。


 あまりにも幸福なこの夢が、覚めなければいいと、いつもいつも思っていた。そのあまりにも無思慮な願望を、いつも自分の使命だとか王族の義務だとか、そんな形式ばった物で押し込めていた。だけど今、自分はこんなにも明確に、彼女の口から紡がれるであろう『さようなら』を恐れている。


「ピィちゃん、あっちでも頑張るんだよ。ご飯美味しかった。温かい部屋も実は嬉しかった。」


 あまりにも落ち着いた貴方の声に、この別れを淋しく思っていないのだろうかと酷く傷つく。だけど貴方の今にも泣きだしそうな笑顔を見て、そんな自分にひどく憤った。


「皆によろしくね。オーディンに私から愛してるって伝えておいて。奥様と仲良くねって。リュカ君と沢山話をしてね。カチュアちゃんによろしく」


 強がっている声は震えていて、それでも私に必死に言葉を届けようとしてくれる。貴方が紡げる、私に向けた最後の言葉を。


「いっぱい意地の悪いこととか、生意気なこと言ってごめん。あんた王子様だって言ってたけど、威張ったりしなくて、そういうところ好きだったよ。ううん、全部結構好きだったかな。だから、絶対死んじゃだめだからね。頑張って、世界を救うんだよ。あのちんくしゃを踏みつけれること、こっちで祈ってるからね。」


 次々に語られる貴方の心情は、それはまるで別離の言葉で。

 聞きたくないのだと耳を塞ぎたいけれど、貴方の言葉を何一つ聞き漏らしたくない気持ちがそれを遮る。


 翠様、翠様、翠様


 何度名前を呼んでも、貴方はもう答えてくれない。触れようとしてもすでにもう触れることさえ出来ない貴方は、まるで本当に泡沫の夢のようで。



「アルフォンス、翠ってね。あんたの目の色のことだよ。」



 涙を我慢しているのか、それとも恥ずかしさからくるのか。目元を赤く染めた貴方の言葉に、私はようやく決心することが出来た。


 この、一人で泣けないほど意地っ張りで強がりで、優しい人を。決して一人にしたくない。

 あれほど開けっ広げだった貴方が、自分の名前の意味を私に調べてほしくなかった理由を、その震える口から直に教えてほしい。


 なんとしても帰ってこよう。気持ちを言えない“理由”を無くす為に、現世(うつしよ)に戻ったとしても、なんとしてもまた彼女の元に帰ってこよう。

 魔王を討ち果たし、世界に安寧を捧げた先には、貴方を必ず奪いに来よう。

 心ごと、奪いに来よう。


「翠様!待っていてください、必ず、必ず倒して…!」


 最後の言葉が、貴方まで聞こえたかどうかはわからなかった。貴方はずっと微笑んでいて。見たこともないほど淋しそうに微笑んでいて。


「貴方に会う為に、また必ず帰ってきますから!」




 その時こそ、捧げるだけだった生涯の愛と忠誠を、貴方に受け取ってもらうのだ。







「―――ス…んか、アルフォンス殿下!」




 突然かけられた強い声に我に返った。

 ハッと顔を上げた私を待っていたのは、緊張の面持ちをした宮廷魔法使いの面々だった。


「私は…?」


 ひどく長い、夢を見ていた気がする。

 とても幸福で、とても欲張りで、とてもこんな自分なんかじゃ想像できないような、優しい夢を。



「おかえりなさいませ、アルフォンス殿下」

 かけられた声に正気に戻る。私は常に倣い平坦な声を出した。

「―――こちらでの私の状況を忌憚なく仔細申せ」

「ハッ。殿下はご自身の意思の元、我々の行使する送還術の魔法陣にお乗りになられました。すると、溢れんばかりのまばゆい光がその身を包み、瞬きをする間に御身が消えておられました。そして再び瞬きする間に、殿下がお戻りになられておいででした。その後、大変恐れながら私がお声かけをさせていただくまで、まるで放心されたかのように佇んでおられました。私からは以上にございます。」


 あぁ本当だ。もっと砕けた言葉で話してくれれば楽なのに。と浮かんだ考えに驚いた。自分に対してそんなことを言う人間がいた記憶もなければ、言われた記憶もなかった。


 アルフォンスは今日、世界の命運を握るとも言われる聖女の元へ送還される予定だった。しかし、本当に事がなされようなどと、誰も期待していなかっただろう。聖女など物語だけの存在なのだと。誰もがそう思っていたのだ。


 しかしアルフォンスは消えた。そんな奇跡を、誰も期待していなかった。そして驚きに目を見開く宮廷魔法使いたちをあざ笑うように、身に着けていた衣装さえ変わった姿でこの召喚の間に舞い戻ってきたのだ。


「聖女様に、聖女様にお会いになられたのですね!」

「そのお召し物は一体…?あまりにも見慣れぬ衣装でありますな」

「祝福を受けて参られたのですか?」

「お手持ちの物は一体…?聖物でしょうか?!」

「聖女様はどちらに!」


 世界にも類を見ないであろう偉業に一斉にして魔法使い達が詰め寄る。いくら世間離れした常識知らずの魔法使い達とは言え、宮廷に出入りしている彼らは王族に対する礼儀作法程度は心得ていたはずだ。しかし、この世紀の偉業を前にそんなもの吹き飛んでしまったらしい。

 興奮した表情を隠しもせずに詰め寄る魔法使い達を、アルフォンスと共に召喚の間へと赴いていたコンラートとオーディンが押し留めた。彼らの存在に我に返った魔法使い達は、大慌てで礼の姿勢を取る。


「これは…大変失礼致しました。」

「よい。皆の者、大儀であった。私はしばし休む。報告は明日みょうにちに改めて席を設けよう。」

「寛大な御配慮に感謝致します。」


 動きやすさに気づいて自身を見下ろせば、見たこともない素材に色使いの服を着ている。こんな服を持っていた覚えはないし、もちろん着込んだ覚えもない。そして気になるのが、手に持っている薄い本のようなものだった。それら全てに、全く身に覚えがなかった。しかし、知らないと彼らの前で取り乱すのは得策ではないということだけはわかっていた。とりあえず自室に戻り、一度状況を整理したかった。


「殿下、共に参ります」

「ついて参れ」


 オーディンの声かけに振り向きもせずにそう言うと、一歩踏み出した。カツンと鳴るはずの音がしなかったことにギョッとする。どうやら自分は靴を履いていないらしい。寝所でも湯床でもないのに、そんなことがあるだろうか。アルフォンスはしかし持ち前の冷静さで無表情を貫き、混乱を顔に出さないように努めた。常であれば、表情を出す方が難しかったというのに、この差異はなんなのだろうかと疑問が尽きなかった。




***




「オーディン、コンラート、フリッツ。そなた達に無礼講を申し付ける。これよりは仲間内で使うような砕けた調子で話せ。」

 先ほどまでのような回りくどい話し方をしていては、大義は成せないと何故かはっきりとわかっていた。私の言葉に驚いたように面々目を見開いたが、これも聖女の啓示だと思ったのか、慇懃に命令に従った。

 そう、彼らはただ私の命令に従っただけだ。そこに気安さや、友に感じる信頼関係のようなものはまだ成り立っていない。


 『まだ』。なぜ『まだ』と感じるのか、私はわからなかった。


「アルフォンス殿下、聖女様にお会いできたのですか」

 興奮冷めやらぬ様子で聞いてくるのは、やはり魔法使いとして気になるのだろう。フリッツ・クリック・リッツだった。なぜか、今まで呼んでいたはずのフリッツと言う呼び名に違和感を覚える。


 私は表情を表に出せぬまま、手に持っていた薄い本を開いた。見覚えのない、細い鉄製の管が取り付けられている。


「『よげんしょより』…」

 見覚えのない文字を何故かすらすらと読めた。読んだ文字をそのまま口に出せば、目の前にいた三人が驚きに身を震わせた。


「預言書?!その書物は、預言書なのですか?!それにこの珍妙な文字は一体…」

「まさか聖女様よりかように重要なものを託されようとは…」

「アルフォンス殿下、まさか本当に聖女様の元へ…?」


 三者三様の言葉に、アルフォンスは苦笑を返した。その表情に、三人が固まる。長いものでは4年ほどの付き合いになる者もいるが、その間アルフォンスの表情の変化など見たことが無かったのだ。


「わからない。覚えて、ないんだ。だがすごく幸せな夢を見ていた気がする…とても長い間。あの夢が、聖女と会えたという奇跡なのだろうか。」

「…僭越ながら、私には想像もつかないほど豪壮な事態で、判断をしかねます。ですがアルフォンス殿下。貴方様は、確実に今朝までの貴方様とは違いましょう。それは貴方様が、誰よりもおわかりになられているかと。」


 オーディンの言葉に、何故か苛つく。いや、彼の言っていることは尤もだ。おかしなことなど一つもない。今までの自分なら、彼らに臣下の礼を崩させることも、表情を動かすことも、このように自分の気持ちを吐き出すようなこともなかったはずだ。それはわかっている。だけども、それをオーディンが言うことが、何故か心底腹立たしい。


 その感情が表情に出てしまったのだろうか。オーディンがひくりと口元の髭を揺らした。そんなオーディンを安心させるように、ゆるく首を振る。


「すまない、動揺していたようだ。」

「いえ、おこがましい事を申しました―――」

「よい。本当によいのだ。」

 自分の一時的な感情で、今後の信頼関係の筋道を崩してしまったような気がしたアルフォンスは慌てて言葉を放った。


「これから、私は討伐軍の指揮官に抜擢されることになるだろう。」

 その言葉に、三人は神妙に頷く。


「その時に、そなた達に支えてほしいのだ。私一人では成し得ぬ大義の為、そなた達に力添えを願いたい。私は、どうしても、何が何でも、世界を救いたい。その為に、そなた達の力を借りたい。どうか私を仲間として、そして友として、支えてはもらえないか。」


 懇願ともつかないほど必死な言葉に、三人は言葉を失ったようであった。今までどこか飄々としていて、魔王を倒すのはあくまでも王命だからだという気配すらあったアルフォンスの、突然の意気込みに誰もが驚愕したのだ。

 驚きから抜け切れぬ三人に、アルフォンスは更に続けた。


「今から、度重なる困難があるだろう。苦戦し、時に決断を迫られる時もあるだろう。その時、私は王族としてそなたらに命令をしたくないのだ。共に戦う討伐軍の仲間として。そして、友として頼みたいと、そう思ったのだ。」

「我々と―――平民である自分のような者とでも、貴賎なく信頼関係を築きたいとおっしゃっていると、とってもよろしいのでしょうか?」

 コンラートの常ならぬ神妙な声に、アルフォンスはしっかりと頷いた。

「身分など、目的を掲げた大義の前には些末であろう」


 静寂が包んだ場に、キチリ、と鞘から剣を抜く音が響いた。


 すっと膝をついたのはコンラートだった。さらりと揺れる赤毛が、窓から入り込む日の光に輝く。抜身の剣を右手に持ち、左手で高く掲げ上げた。


「身に余るほどの勿体なきお言葉に報えるよう、我が身命を賭して、お護り致しすことを誓います。」

 騎士として名誉を賭けた誓いの言葉にアルフォンスは深く頷いてその剣を受け取った。

「確かに受け取った。その忠義を忘れず、勇ましくあれ。」


 コンラートの動きでハッとした二人が同じように膝を突こうとしたのを押し留める。

「よいのだ。そなたらにも、それぞれの思いがあろう。オーディン・バスチェ、フリッツ・クリック・リッツ。そなたらが、私が誓うのに相応しいと思った時に、その膝を曲げてくれればそれでよい。」


 アルフォンスの言葉で、上役よりも先に膝を折り、誓いの言葉を口にしたコンラートの気まずそうな表情が消えた。

 しかし、他の二人は更に困惑したような表情を浮かべる。今まで接してきたアルフォンスと、180度人が変わったような王子についていけないのだ。


「アルフォンス殿下、男前になりましたね」

「そうだろうか。もっと言ってくれ。私はなぜか早く、格好良くなりたいのだ。」

「いいですね、恐れながら殿下、私は中々その道に長けておりまして」

「何故だろうか。その誘いに一瞬も魅かれない。」

「こう見えてもですね、ひとたび町に降り立てば数多の女性が私に抱かれたいとこぞって押し寄せるのですよ」

「そのような戯言は本命に振り向いてもらってから言うことだな」

「ちょ、殿下!一体それをどこで!」


 二人の漫才のような掛け合いに、やはりついていけてない真面目な二人が口をあんぐりとあけて見入っていた。アルフォンスは適当にコンラートをあしらいながら、手に持っていた“よげんしょ”を捲った。


「とりあえず、旅に出るか。魔王を倒すために。」

 その何とも気の抜けた言葉に、コンラートは笑い、オーディンは背を正し、フリッツは持っていた杖を落としながら答えた。


「御意に」

 






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