第二十九章 戒と律と言 その五
「片山神父は罪の意識を感じておられたのでしょうか?」とマクガイアは高梨神父に尋ねた。
「そうですね・・・感じておられたと思います・・・しかも、その事実を信者全員が知っていたことで片山神父は苦しまれておりました・・・」
「信者が知っていた?」と驚いてマクガイアは尋ねた。
「そうです・・・世間は狭いですからね。皆、知っていました」と高梨神父。
マクガイアは片山神父の胸中を思った。
高梨神父も思いを巡らせているようで、二人とも黙ったまま時間が過ぎる。
そこに、足音を響かせて鈴が飛び込んできた。
後ろから追いかけてきたシスターが、すみませんとマクガイアと高梨神父に謝った。
鈴はマクガイアを見つけると駆け寄って膝に抱きついた。
マクガイアは鈴の頭を撫でながら、シスターに問題ないと首を振った。
「さあ、鈴。東京に戻ろうか」と声をかける。
すると鈴はマクガイアの目をジッと見て首を振った。
「ああ〜」とマクガイアは思い出した。
「赤福?」とマクガイアが鈴に問いかけると、鈴は元気よく頷いた。
「赤福ですか?」と高梨神父。
「ええっ、旅の途中で出会った人に、修学旅行ならお伊勢さん?伊勢神宮に行って、お土産に赤福を買って帰るのが定番だと教わりまして・・・」とマクガイアが説明する。
「伊勢神宮ですか・・・それはいいかもしれませんね。日本人の信仰のあり方をみるのも・・・」と高梨神父は言うと、旅程を聞いてきた。
「ノープランです。今日、伊勢神宮に向かって、そのまま東京に戻ります」と安易に答えるマクガイアに、それはいけないと高梨神父。
「シスター、佐倉君に車の用意をするように伝えてくれますか、マクガイア神父を空港までお送りする。マクガイア神父、長崎から伊勢神宮まではかなり遠いですから、今から出発しても着くのは夕方近くになりますが、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」とマクガイア。
高梨神父と信者達が教会の前で見送ってくれた。シスター麻美の縁者であるシスターの姿もあった。
また来てくださいと言う高梨神父に、教会の発展をお祈りしておりますと告げて車に乗り込んだ。
マクガイアと鈴が乗る車が見えなくなるまで、教会の人たちが手を振っていた。
車で送ってもらったお陰で、マクガイアと鈴は9時台の飛行機に乗ることができた。
この旅行で、鈴が移動中にぐずるようなことは一度もなかった。
それが、どれだけ幸運なことなのか、子を持たないマクガイアには分からない。
鈴は狭い座席でジッとしていることに慣れているように見える。
その横で、マクガイアは思索に耽る。
片山神父はシスター麻美の死を自殺と知りながら、教会で葬儀を行い、教会に葬った。
1945年当時においては、カトリックとして正しい行為とは言えない。
しかし、現在では、許容される行為と考えられている。
では、片山神父の行為は時代の先を読んだ、正しい行為であったと称賛されるものだろうか・・・
言に神は宿る。神の言と教会の言葉・・・
マクガイアと鈴は、伊丹空港に着くとバスに乗って、昼前には近鉄電車で伊勢神宮へ向けて出発することができた。
近鉄宇治山田駅で電車を降り、バスで伊勢神宮の内宮へと向かった。
内宮へ向かうバスは参拝客で満員だった。
バスに揺られながら、マクガイアは日本古来の多神教である神道の聖地を想像していた。
マクガイアにとって最も親しみ深い多神教と言えば、ギリシャの神々だが、既に、正しき信仰に目覚めて久しいギリシャでは、古代の神殿は遺跡となり、観光地となっている。
今も信仰を維持し続けている多神教の聖地となれば、それはヒンズー教の寺院や道教の寺院に近いものだろうかと思いを巡らす。
そこは、偶像と喧騒にまみれているに違いない。
もし、禍々しい儀式が行われているなら止めなければならないと、マクガイアは思う。
木々が茂る角をバスが左に折れて、右に旋回すると車窓から大きな鳥居が見えてくる。
バスを降りて大鳥居に向かう。鳥居の向こうに橋が架かっていた。
マクガイアは鈴の手を引いて橋を渡りながら、なるほど、いい演出だと思った。
これから聖域に入ることを橋を渡るという行為で、感覚的に印象付けている。
橋を渡り終えると目の前が開け、木々が植えられた庭のような場所に出た。
しばらく行くと、手水場が現れた。
鈴が手水場に駆け寄って柄杓を取って手を洗う。
マクガイアは、ハンカチを鈴に渡して、鈴に倣って自分も手を洗った。
少し行くと人が右手に流れる。マクガイアは鈴の手を引いて、そちらへ向かう。
すると幅10メートル程の澄んだ浅い川にでる。先程渡って来た川だ。
鈴が興奮して魚を指差す、マクガイアは笑って頷きかえし、再び川面に目を向けて、はっと息を飲む。
隣の御婦人に「この川の名前はなんですか?」と問いかけた。
御婦人は「えっ」と言い淀んで「お父さん、この川の名前知ってる?」と、横の男に声をかける。
年配の男が「五十鈴川。五十鈴川と言います」とマクガイアに川の名を伝えた。
やはりとマクガイアは思った。
日本語を学んでいた頃に、同じクラスの生徒から強く勧めらて読んだ吉川英治の小説『武蔵』。
マクガイアも夢中になって読んだその小説の中で、武蔵が傷ついた足を五十鈴川で洗う描写を思い出したのだ。
この川だったのかと、急いで靴を脱ぎ、片足を川に浸けた。
目を閉じて、武蔵を思った。
目を開けると、横で鈴がマクガイアを真似して川に足を浸していた。マクガイアは微笑んで鈴の足をハンカチ拭ってやると参道へと向かう。
マクガイアと鈴は人の流れに沿って進んで行く。何本か立派な大樹を目にした。
その大樹の幹に手を触れる人、抱きつく人もいる。
そういう人が多いのだろう、木の肌が摩耗してテカテカしている。
聞こえてくるのは参道を行く人が砂利を踏む音と、囁くような話し声だけである。
周りに木々が茂った少し開けた場所に来ると、左手に石段が見えた。
人々は石段の手前に立って、石段の上に見える鳥居にスマートフォンを向けて写真を撮っていた。
石段の途中にはここから撮影禁止の立て札があった。
人々は皆、石段を登るときには、スマートフォンをしまい、撮影するものはいなかった。
石段を登った所に簡素な小屋があった。
木で作られたその小屋は、まだ新しく白い木肌が眩しい。
小屋の前には柵があり、参拝客はその柵の前で手を合わせて祈っている。
参拝客が祈っている小屋の中を覗いてみるが、小屋の開け放たれた扉に、カーテンのような布が掛かっているだけで、その薄い布の向こう側には何もない。
長く留まる人もなく、皆が左手へと流れていく。
鈴がマクガイアの手を離し、柵の前に行き、手を合わせて祈ると、マクガイアの元に戻ってきた。
マクガイアは鈴の手をとって、伊勢神宮の主祭神である天照大御神の偶像を目指し再び歩き出した。




