第十八章 義理と人情 その二
安原は呼鈴を鳴らさず、ドアをノックして、語りかけた。
「ユリア。聞こえているか?」返事はない。
「ユリア、俺はお前に助けられた。覚えているか?一月前にお前に命を救われたヤクザもんで安原義人という」と安原は名乗った。
「お前が俺の姪だとは知らなかった。ただ、助けてもらった礼を言うためにここへ来たんだ」返事はない。
「姉さんは、もういない。お前の母親はもういない」と安原は中にいるユリアに伝える。
「ユリア。礼が言いたいんだ。話がしたい。顔を見せてもらえねぇか」と続ける。
そう言って待った。安原は開けてもらえるまで待つつもりだった。
鍵が開けられる音がして、チェーンをかけたままでアパートの部屋のドアが開いた。涙で目を真っ赤にしたユリアが言った。
「あなたが叔父さんなら、わたしの父親の名前を知ってますよね?」
「もちろん。倉棚茂だ。巨人ファンの父親、お前のお爺ちゃんが長島茂雄の一字をとってそう名付けたと聞いている」
安原の返答を聞いて、ドアは一度閉められ、ガチャガチャとチェーンを外す音がした。ドアが開いた。泣きべそのままユリアが立っている。
「入っても?」と安原が聞いた。頷くユリア。
ダイニングキッチンで二人は向き合って座った。
「叔父と姪としては、はじめまして。だな、ユリア」と安原は言う。
「俺のことは、覚えているか?」
首を横に振るユリア。そして、気付いたように言う。
「いえ・・・おじさんを・・・助けたことは覚えています。叔父としては・・・すみません・・・知りませんでした・・・」ユリアは先程の騒動で激しく動揺していた。
「ああ、それでいい。それでいいんだ」と安原は言った。
「一月前に、助けてもらった礼を言いに来たんだ」そう言うと、安原は姿勢をただし「助けていただいて、ありがとうございました」とテーブルに両手をついて頭を下げた。
騒動からまだ立ち直れないユリアは、いえいえと手を振るのが精一杯だった。
「大変だったな」安原は、なんと声を掛けていいのか分からない。
ユリアは体をギューと体を縮ませて、息をふーっと吐く。
「ぱ・・ぱかぱか・・パフ・・ぱっぱか・・ぱかぱか・・パフ・・・」とユリアはか細い声で呟いた。
「なぁ、それ、あの雨ん時にも言ってたろ?幻聴だと思ったぜ、お前だったのか」と安原が笑った。
ユリアはそうだったっと思い出した。あの日もおじいちゃんに教えてもらったおまじないを叫んでいた。
おじいちゃんからは大きな声で唱えなければダメだと言われていたのに、今日は大きな声が出せない。
「もう、大丈夫なんですか?」とユリアはそれでもなんとか安原に話しかけることができた。
「ああ、お陰様で、もう大丈夫だ」と安原は笑顔で返す。
「よかった」とユリア。
最悪な日に起こった、良いことの2つ目だとユリアは思った。1つ目はマクガイアと出会えたことで、2つ目が人を助けることができたこと。
今日はお母さんに教会に無理やり連れて行かれそうになったけど、連れて行かれずに済んだし、叔父さんと出会えた。ユリアはチャラにしようと決めた。
「刺されて・・ましたよね?」とユリアが尋ねる。
「恥ずかしいところ見られちまったな」と言う安原にユリアはもっと詳しくと言う目を向けてくる。
「刺された。ガキみたいに若いやつに」と安原は面倒くさそうに言う。
「いや、まあ、それはいい」自分がなぜ刺されたかなどユリアに説明する気はない。
「治療してくれた医者が言うには、あと10分遅かったら死んでたそうだ」
「お前は、俺の命の恩人だ。心から礼を言う。ありがとう」と今度はユリアの目を真っ直ぐ見て言った。
「はい・・・ご無事で何よりです」と少し改まった口調でユリアが言う。
「さて、本当はこれで帰るつもりだったんだが、そうもいかなくなっちまった」と軽い口調を装って安原は言った。
「驚いたよ」と言ってユリアに微笑みかける。
「俺は、お前のお母さんの弟で安原義人と言う。つまり、お前の叔父になるわけだ」
「すいません・・・さっきも言いましたけど、わたしに叔父がいるとは知りませんでした」
「いや、謝ることはない。むしろ、知らないほうが良かったろう」
「俺は、ガキの頃からデキが悪くて」と安原。
「お前もなんとなくわかっていると思うが、俺はカタギじゃない」と言ってバツが悪そうに笑う。
「で、姉さんも、俺のことをお前に話さなかったんだろうな」ユリアは里見に弟がいるということを誰からも聞いたことがなかった。
「俺はお前のことを知っていた。娘が生まれてユリアって名付けったって手紙でな」と安原。
「ちょうど、お前の歳の頃、俺は少し離れた場所で暮らしていたから、そのぉ、手紙でしかやり取りができなかったんだ。やり取りといっても手紙は一方的に姉さんからだけだったんだが」と言って唇を噛んだ。
「ひとつ聞いていいか?」思い出したように安原は言った。
「はい」とユリア。
「なんで、こんなとこにいるんだ、義兄さんは?」と安原は不思議そうに尋ねた。
「えっ」とユリアが驚く。
「お前の父親、倉棚茂義兄さんだよ」と安原は言う。
「あっ、お父さんは死にました。わたしが中学2年の時に交通事故で」とユリア。
「そうか、すまん。知らなかった。義兄さんはいい人だったよな」と安原。
「はい、大好きでした」とユリアがやっと笑顔になる。
「仏壇は?」と安原。
「仏壇はありません。位牌だけあります」とユリアが申し訳無さそうに言う。
「線香を上げさせてもらいたいんだが、いいかな?」
「線香はありません、すいません」とユリアは謝った。
「そうか、手を合わさせてもらいたいんだが、いいか?」と言う安原を、ユリアは奥の部屋に通した。
位牌と骨壺の前で、安原は手を合わせた。直ぐに終わるかと思っていたのだが、長い。
ユリアは、ダイニングキッチンに戻って冷蔵庫を開け麦茶をグラスに注いだ。
グラスを安原が座っていた席の前に置いて、安原の様子を窺うと、安原は両手を膝に置き位牌に深々と頭を下げてから立ち上がった。
「ありがとう。姉さんのことは本当に義兄さん頼みだったからな」と席に戻って、安原が目を伏せて言う。
茶の礼を言い、一口飲んだ。
「だが、なんでだ、義兄さんとこは会社をやってたろ?でかい家だった。なんで、こんな薄汚いとこにいる?」
「それは、その、お母さんが・・・」とユリアは先が言えない。
「天の階教会?」と安原が察して言う。
頷くユリア。
「すまない。それも、俺のせいだ」と安原は意外なことを言った。
「ユリア。会ったばかりでこんな事を言うのも何だが、お前は今、すごく危険な立場にいる。姉さんは今日、お前を連れ出そうとしていたんだよな」
頷くユリア。
「ここへ来たとき、アパートの下に白いバンが停まってた、そんで二人の男がいた。姉さんと組んで連れ出したお前を、教団に連れ去ろうって、魂胆だ」と言って、安原はユリアの様子を窺った。
「お前は、それを望むか?」
力なく首を横に振るユリア。
「助けてやるから、俺についてこい」と安原が言う。
「ちょっとだけ待ってもらっていいですか?電話をかけさせてください」とユリアが言うと、安原は頷いた。ユリアはスマートフォンを手にとってマクガイアに電話した。マクガイアが電話に出ることはなかった。夜も遅い、マクガイアを責めることはできない。
ユリアは迷ったが、結局、安原の申し出を受けることに決めた。




