13
「あー……あなたそういうタイプだったんですね」
すべてを話し終わると、頬澄は狐の面の向こうでそう言った。
悪いとは思った。が、どうしても今すぐ伝えたくなったから、『羽の間』に戻った後、頬澄を百物語から連れ出した。そしてかくかくしかじか、とさっきまでの自分に起こった出来事を説明した。
けれど、頬澄の反応は思ったようなものではなかった。てっきり多少なりとも慌てたり慄いたりするものかと思ったのに、平然と、呆れたように言うものだから、かえって安心して、思わずその肩まで掴んで新波は訊ねる。「わかるのか」
頬澄はその肩を掴む手をじっと見つめながら答える。「幻覚ですよ」
「げ、幻覚?」
「それ以外に何がありますか?」
口調こそ丁寧ながら、声音はいつものそれに戻っている。ぞんざいで、暗に「お前は馬鹿なのか?」と伝えてくるような声。
「いや、でも、」それでも、新波は首を振る。「どう考えても幻なんかじゃなかったぞ。はっきり見たんだ」
「幻覚ははっきり見えるものですし、幻覚を見た人は大抵『幻覚なんかじゃなかった』と言うものです」きょろきょろ、とあたりを見回して、人のいないことを確かめて「外しますよ」狸の面を、新波の顔から外した。
それで急に、さあっと風が顔に通り始める。昼間からずっと着けっぱなしだったから、水風呂でも浴びたような爽快感が湧いた。
「まあ何も、ただあなたの頭が突然おかしくなったから幻覚を見たなんて言うつもりはありません。いや、言ってもいいんですけど。言ってほしいですか?」
「なんだよその質問は」
「じゃあ言いません。たぶん、あなたは催眠とかにかかりやすいんでしょうね。受けたことは?」
「催眠って……『あなたは段々眠くなる』とか、そういうやつか?」
ふざけてやったことならあるけど、と困惑しながら新波は応える。だってまさか、霊媒を手品呼ばわりしたり、自分がこの目で見てきた怪奇現象を幻覚の一言で片付けるような女が、催眠なんて言葉を持ち出してくるとは思わない。
「あるのか、あんなの。本当に」
「あると思いますよ」
「思います?」
「体感的に、そういうことはできるだろうなという印象があるだけです。金縛りにあったこととか、眠る前に幻聴が聞こえたことはありますか?」
「金縛りなら、何度か」
「疲れてるときとか、緊張してるときとかでしょう。あとは寝苦しいときとか」
「まあ、」記憶を掘り起こして、「そう、だったかも」
「金縛りが霊の仕業だ、なんていうのは風で吹き落ちたティッシュを見て『幽霊の仕業だ!』と言うのと同じくらい馬鹿馬鹿しいことですが、そうなるのにも多少理由があります。金縛り中は、幻聴幻覚に遭いやすいんですよ。半覚醒状態とか、まあそういう言い方をするのかもしれませんが、つまり夢が混じってしまうわけですね」
「待て」
流れていく話を、途中で堰き止める。
「俺は別に、金縛りにあったりしてたわけじゃないぞ。普通にトイレに立ってただけだし、寝てもない」
「金縛りはたとえですよ。誰もがあなたみたいに何の寄り道もしないで理路整然と話ができると思わないでください」
「え、あ。ああ」
「謝ってください」
「……? ごめん」
へへ、と狐の面の奥で素の笑い声が聞こえてきた。じゃれてきただけか、と気付くまでに、少し新波の頭は落ち着き始めている。
「頭がぼーっとしてるときは、そういうことが起こりうるって話です。私は大丈夫だから油断してましたけど、シーチはそういうのに弱いタイプだったんですね」
そういうの、って。
考えた。頭がぼーっとする原因。まずは狸の面。中に暑気が籠もって、確かに熱中症になりそうだとは思っていたのだ。他には、そうか。あの『羽の間』。蝋燭灯りだけの暗い部屋で、少しずつ意識が落ちていたのかもしれない。
「あとは、怪談話の単調な聴覚刺激もありますね。それにこのお面、視界が狭まってる状態でゆらゆら揺れてる光を見ることになったでしょう。気付かない間に、ちょっと頭がぼやけてたのかもしれませんね。後は、ほら。日頃の疲れが溜まってたとか。二日連続でソファで寝てますし」
まあとにもかくにも、と頬澄は狸の面を新波に押し付けて、
「今日のところは、部屋に引っ込んでいてください。狸の面も外しておいていいですよ」
「……いいのか?」
申し訳ない気持ちになって、新波は訊いた。顔を見せないのは、ホーマの中でのルールなのだと思っていた。そしてそれは、彼女に雇われる以上、自分も厳守すべきものなのだと思っていた。体調不良というのは如何ともしがたい理由ではあるが、それでも、雇われてついてきたのに大して役にも立っていない自分が頬澄に負担をかけるのは、罪悪感がひどい。
「熱中症ってことにします。寝るところだけ替えてもらいましょう。ウサさんと交代で。私が同部屋になれば、誰にも素顔を見られることはありませんよ」
「…………ああ、なるほど」
確かに、それなら問題はない。明日、ウサには謝っておかなくてはならないな、と思いつつ、安心する気持ちもあった。
「ごめんな」
「いいですよ。とりあえず、今日のところはもう部屋まで戻って休んでください。明日のことは、起きてからの様子を見て決めましょう」
じゃ、と頬澄は片手を上げて、
「そろそろ順番回っちゃいますから。一人で部屋まで戻れそうですか?」
大丈夫、と片手を上げて、新波も返した。
△
虫の声が涼しく聴こえる。
遠くで、海の鳴る音も。
旅館の三階。暗い部屋で、冷房を点けて、ぼんやりと天井を眺めていた。久しぶりに面を外した顔が、清々しくて仕方がない。固い寝床に慣れ親しんだ身体に、まともな布団はやわらかすぎる。いつもだったら、昼までだって一度も目覚めないままに眠れそうだった。
けれど、今はまだ、気になることがあって。
「幻覚、だったのか……」
本当に?
あんなにくっきりと、目にしたのに? 本当に、ただ夢と混じっただけだったのだろうか。それに、七十分も経っていたというのは? 立ったまま寝ていたのか。本当に、そんなことがありうるのか。
天井の木目が、人の顔に見えた。
一度瞬きをすれば、そうは見えなくなった。
ひょっとすると、と思った。ひょっとすると、自分は怯えているのかもしれない。百物語を聞いているときは、何も思っていないつもりだった。頬澄から「実在しないものが出てくる話なんて全部嘘だ」と聞いていたのもある。人間が怖い、というタイプの話に、必要以上に感情移入しない性質だ、というのもある。だから、何も感じていないと、そう思っていた。けれどそれが、勘違いだったのかもしれない。
冷房が静かに唸りを上げている。
少し、肌寒かった。
自分は、怯えているのかもしれない。それで、ありもしない幻影を見たのかもしれない。それで情けなくも、頬澄に縋りついたのかもしれない。
これじゃいけない、と思う。成り行きのままでここまで来た。頬澄自身「ただの雑用だしそんなに気ぃ入れなくていいかんな」と言って連れてきてくれた。けれど、足を引っ張ってばかりではとてもいられない。金まで貰って足を引っ張りにきたわけではない。気を取り直そう。設営の準備はそれなりに役に立てた。最低限の仕事はできたわけだ。だったら、今日のところはもう切り替えよう。ゆっくり休んで、体調を戻して、それで明日、何か貢献できないか考えよう。たぶん、頬澄からしてみれば今の自分に期待するところなんてほとんどないのだろうけど。実際にはその後、動画編集だとか、カメラマンだとか、そういうものをやらせるのが本命で、今回の旅行はただ雰囲気を掴ませるためのものなのだろうけれど、だったらなおさらだ。その雰囲気掴みのために遥々こんなところまで連れてきてくれたというなら、自分だってそれに見合うだけの姿勢を見せる必要がある。だから、今日は寝よう。目を瞑る。身体の力を抜く。
……ダメだ、どうしても肌寒い。
ばさり、と布団をのけて、立ち上がった。エアコンの温度を調整するつもりだった。部屋の入口まで歩いて、パネルを見る。けれど、すでに設定温度は二十八度になっている。これ以上にすることに意味があるとも思えない。一度、その運転を停止させた。遅れて頬澄が帰ってくるはずだけれど、きっと暑いと思ったら自分で入れてくれるだろう。それに、ひょっとして。
窓辺まで歩いた。そして、開けた。予想したとおりだった。潮の香りを孕んだ夜風が、秋のように涼やかに吹いている。『羽の間』の周りのみが、蝋燭灯りのためか建物の造りのためか、暑かっただけなのだ。いっそこのまま窓を開けて眠りたい、とも思ったが、自分だけの部屋ならばともかく、そうではないのだ。風に少しの間だけ当たって、からからとまた窓を閉めようとして、不意に。
目を見開いた。
緑の蛾が、月の光に紛れてふらりと部屋に入ってきたから。
驚くことではないのだと思う。そう、新波は自分に言い聞かせている。これが今尾の言っていたオオミズアオなのだろう。そして彼は、この地方にはその蛾の数が多いとも言っていた。だから、こうして外から虫が入ってくるというのも、そこまで珍しい話ではないのかもしれない。
けれど、さっきの光景を思い出せば、どうしても。
じっ、と見つめた。緑の翅を闇の中に透かして、蛾は舞った。部屋の中をぐるり、と。それからテレビの待機灯の周りに、僅かに止まる。その後は、すうっと一直線に、新波のところに飛んできた。
避けようと思ったけれど、身体が動かなかった。
ふうっ、と蛾は、迷いなく飛んでくる。眉と眉の間に。黒い目。黄色い触覚。白い毛の生えた身体。
どういうわけか、怖くはなかった。
△
――なにしてんの。猫?
――…………。
――埋めんの? それ。
――……くせーんだよ。こいつ、保健室の近くだから
――臭いって……。触った方が臭い付くだろ。
――…………。
――穴掘ったら、ちょっと待ってろよ。
――は?
――俺、いつも自転車にカッパ入れてるから。持って来る。
――なんで。
――そしたら臭いもそんなにつかないだろ。すぐ洗えるし。
――…………。
――走ってくるから、それまでやるなよ。
――……勝手にしろよ。ばーか。
△
風が頬に当たっている。
自然の風ではないと思った。規則的だったし、何度も何度も切れ目があったから。
微睡みの中で目を開けると、うちわが見える。
少し顔を傾けてみれば、そのうちわを持っている頬澄の顔が見える。もう片方の手に持った携帯の画面を眺めているから、自分が起きたことに気付いていないらしい。
「窓、」
小さく声を上げると、頬澄の肩がびくっと震えた。こちらを扇いでくれていたうちわの手を止めて、バツが悪そうな顔をして、そっぽを向くように身体をずらして言う。「起きんな、寝てろ」
「窓、開いてなかったか」
「窓?」
「窓」
頬澄の顔が傾く。月明かりのある方へ。真っ白な光が、彼女を照らした。
「別に。開いてなかったけど」
ああ、やっぱりそうか、とどこかで腑に落ちる。なんとなく、あれも夢なのではないかと思った。それか、幻か。それとも。
じゃあ、今のこの光景は?
「ありがとな」
「何が」
「綺麗だな」
「だから、何が」
「お前が」
は、と息を吐く音が聞こえた。月よりも白い滑らかな顔で、頬澄がこちらを見ている。今の自分は起きているのだろうか、眠っているのだろうか。その答えが、今の新波には出せない。でも、言うべきことは言っておこうと思って。
「明日は、頑張るからな」
それだけ言って、瞼はどうしようもなく落ちていく。
勝手にしろ、と声が聞こえた気がした。




