12
話し終わると、しん、とあたりは静まり返っていた。
ああ、なるほど、と新波は思う。これは怖い。自分の話が、ではなく、沢山の人に見られながら、自分の考えた話をするということが。他人の考えは自分の目からはわからない。まるで怖くないだとか面白くないだとか思われているかもしれない。こんなことを日常的にするには凄まじい度胸がいる。改めて、また頬澄への尊敬の念が強まった。
いつまで経っても誰も、何も言わないので、仕方なく新波は自らまた、口を開く羽目になった。
「以上で、この話は、」
「ひひ」低い笑い声がした。
左隣からだった。回蔵。彼が背を丸めて、俯きながら肩を揺らしている。ひひ。ひひひひ。短い髪が揺れている。奇妙な笑い方だった。歯を食いしばって、口を横に限界まで広げて、その隙間から漏れ出たような声。
「ひひ、ひひひひひひ」
つーっ、とその口から、何か透明なものが落ちていった。涎だ、と新波にはわかる。糸を引いて、蝋燭灯りにぬらめいた。とぽ、と座布団の上に降り落ちて、控えめな水音を立てる。
どう見たって、様子がおかしかった。
「回蔵さん?」
「ひひひ」「ひふ、ひひいいいひいい」「ひひひひいひひひ」「ひ」「ひひひっひいいいい」「ひひひひひひひひひ」
思わず、狸の面の裏で、瞳孔が開いた。
回蔵だけではない。その場にいた新波の他の七人全員が、背を丸めて、ひひひ、ひひひ、と奇妙な笑いを洩らしている。暗がりの中、みな一様に顔は見えない。異様な雰囲気に囲まれて、思わず新波も、ぐ、と生唾を飲んだ。
本当に、ドッキリなのか。
いくらなんだって、真に迫りすぎている。回蔵や、山城だけがこうなるというならまだわかる。けれど、その他は演技などほとんど関係のない職業なのではないのか。ここまで不気味な振る舞いが、人に簡単にできるのだろうか。
それに、一つ引っかかっていたこともある。
わざわざ頬澄が、ドッキリなんてものに参加するだろうか。
ただでさえホラーそれ自体を手品と考えているような人間だ。ならば、ドッキリなどという形でそれを笑うというようなことがあるだろうか。彼女の動画をいくつか、それからここに至るまでの百物語を聞いても感じていた。頬澄は、ホラーの外形こそ茶化すことはあれど、芯の部分は決して笑いものにはしない。崩す部分と、崩さない部分。『怖い』と感じる気持ちだけは、絶対に取り上げたりはしない。
それじゃあ、これは、一体何なのだ。
「回蔵さん」最も手近にいた人物から、新波は声をかけた。
もはや回蔵のそれは、笑いを通り越して痙攣に近い。びくびくと身体を気味悪く跳ねさせて、ひひ、ひひ、と言えばだらだらと歯止めなく唾液が落ちていく。
「回蔵、さん」
肩を掴んで、揺さぶった。
ぐるり、と力のない人形のように、回蔵の身体は傾いて。
顔が、見えた。
「――――――」
「ひ、いひひひ」
目がなかった。
眼球が抜け落ちている。そこにあるべき球体がなく、眼窩は落ち窪み、その奥に全てを飲みこむような、夜よりもずっと暗い闇が続いている。ひ、ひひひ。口はずっと歪に笑っているが、それ以外の表情はどこにもない。笑っていないのかもしれない。それじゃあ、彼の感情は一体?
「ひ。ひひひひひひひ――――は」
顎が落ちたように、回蔵の口が開いた。歯がない。一本も。歯肉が暗がりの中でもわかるほどに赤く濡れている。舌が蛞蝓のようにもぞもぞと動く。真っ黒で、びっしりと生えた舌苔の上に、何かが動いている。
芋虫だった。
「――――な、」
思わず、新波は仰け反った。黄緑色の、顔だけは茶色の幼虫が、回蔵の舌の上に姿を現した。頭をもたげて、振って、それから新波を見つけたように、じいっとこちらを見つめている。
そして、一匹だけではなかった。
舌の奥から、続けて虫が現れる。二匹、三匹、四匹、五匹。わらわらと。胃腑の中にある巣穴から現れた、とでも言うように、次々に這い出して来る。
「なんだ、これ」
恐怖が、心の中に芽生える。立ち上がって、周りを見回した。ドッキリなんてものではない、とほとんど確信していたが、それでも最後の望みがあった。もしも、今こうして動揺している自分を、誰もが観察しているとしたら。その反応を、注視しているとしたら。新波は、この回蔵を目にしてなお、その可能性を捨てきれずにいた。
ある意味では、その期待は叶った。
確かに、他の六人は皆、新波のことを見ていた。
回蔵と同じ、眼球のない眼窩で、じっ、狙いを定めるように。ぽっかり開いた口から、芋虫の頭をいくつも覗かせて。
ぼたり、とそのうちの一匹が、畳の上に落ちた。
それを合図にしたように、空洞の眼窩からも虫が顔を現した。右の目からも、左の目からも、容赦なく。口から出てきたのと比べれば随分と太っている。目の周りの骨を砕くように、みちみちと身をよじって、ぶちっと肉が千切れて血が滲み出して。
ぼとっ、ぼととっ。
音を立てて、すべての芋虫たちが、畳の上に降り立った。
回蔵も、今尾も、誰も動かない。力を失った抜け殻のように、あるいは屍そのもののようにして座ったまま、もうどこの指すらも動かさないでいる。笑い声も、何も聞こえない。その代わりに、ずるずると芋虫の這いずる音が聞こえてくる。
皆、新波の下へ、向かってきていた。
茶色い頭を、まっすぐに向けて。必死に、身をよじらせて。
「ハ、あ…………」
声も声にならない。胸の奥に、氷のような冷たい痛みが走る。どう見ても、これはドッキリなんかではない。映画でもきっと、こんなことはできない。この場にはCGも何もあるはずがないのだから。目の前で起こっている光景が本物なのだとしたら、こんなことは現実にはありえない。
それなら、これは何だ?
本物の、怪奇現象。
「あ、」
そう、自分の頭の中で言葉が実を結んだとき、とうとう新波の恐怖心は最高点に達した。それが震えになって、言葉となって、喉から爆発するように解き放たれようとした。
その、一瞬前のことだった。
「シーチさん?」
背後から、男の声が聞こえた。
すぐさまにはわからない。けれど、確かに記憶の中にはある。最近聞いたことのある声だ。思わず、新波は縋るように振り返る。
「どうしたんですか、こんなところに突っ立って」
緑の髪の青年が、心配そうな顔で立っている。
名前。名前はなんだっけ。新波は頭の中を必死に探ったけれど、慌てた泥棒のように記憶の引き出しをいたずらに開くばかりで、答えまで辿り着けない。そして、そんなことをしている場合ではないということもわかっていたから、とにかく必要なことをすぐに言わなくては、と必死になって、
「虫が――――」
「虫?」
怪訝そうに、青年は身体を傾けて、新波の奥の方に目を遣る。同じく、新波もその方を見た。指まで差して、それがそこにいることを教えるように。
けれど。
「あれ…………」
「いないじゃないですか、何も」
どこにも、その姿はなかった。
それどころの話ではない。ここは『羽の間』ですらなかった。
ついさっき、新波が訪れた旅館のトイレ。そこにあるのはその殺風景だけ。芋虫の姿どころか、人の姿すらもどこにも見当たらなかった。
「気分でも悪いんですか?」
青年が訊ねる。そうだ、ワニだ、と今さら新波は思い出した。
「いや、そうじゃ……今のは……」
なんだったのだ、今のは。
幻覚? いや、それにしては、あまりにも鮮明な光景だった。そうだ、繭。あの個室の中にあったんじゃなかったか。
早足で、新波はそれを確かめる。蓋の閉まった洋式便器。けれどそこに、あの蛾の繭は見当たらなかった。
「……俺は、一体……」
「本当に大丈夫ですか?」
心配げな声音で、ワニは語り掛ける。
「今尾さんはすぐに戻ってきたのに、シーチさんがもう一時間も戻ってこないから心配して探しにきたんですよ。僕が言うことでもないかもしれませんが、部屋で少し、休んだ方がいいんじゃないですか」
「一時間?」
ぎょっとして、新波は振り向く。その素早い反応に、ワニも驚いたらしい。怯んだように、少し上体を仰け反って、
「え、ええ。正確には、七十分くらいですか。ホーマさんは『お手洗いでしょう』って言ってたんですが、あまりにも長いから」
そんな馬鹿な、と新波は思う。
ついさっき、あの『羽の間』で過ごしたのは、精々が十五分くらいだ。それが、一体どうして。いや、わかっていることもある。あの『羽の間』は、現実であった出来事じゃない。幻、いや、それとも。
「部屋まで送っていきましょうか」
ワニが言うのに、「いいえ」と新波は首を振る。
「『羽の間』に戻ります。……ホーマに、伝えないといけないことがあるかもしれません」




