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 クレーマー、という人、最近増えていますよね。もっとも、最近増えたのではなくて、そういう人がいるという話が、よくインターネットなんかでされるようになって、今頃目立つようになっただけなのかもしれませんが。

 そのクレーマーの中にも、色々とタイプがありますよね。たとえば、とにかく話が長いであるとか、お金を要求してくるとか、とにかく土下座でもなんでもしろ、と脅してくるだとか。このお話に出てくるクレーマーは、その中でもすぐに『上司を出せ』と言ってくるようなタイプでした。

 ある公務員の人がいました。どこの業界でも繁忙期というのはあるものですが、この人のいた部署ではそれぞれが全然別の仕事をしていたものだから、同じ部署の中でも人によってまちまちにズレていたんですね。だからその日、その人は夜遅くまで、ずっと一人で残っていたんです。とはいっても、それなりに大きな庁舎ですよ。何階建てにもなっていて、その階ごとに大きな事務室が二つあって……というものです。このときの一人、というのは、その階の中で一人になってしまった、ということですね。

 仕事は順調に進んでいました。なにせ毎年やるものですから、やれば終わるようにはなっているんです。けれどとうとう時計の短針も十二の数字を過ぎてしまった。こういう区切りが来てしまうと、どうしても作業の進みとは関係なく、気持ちが途切れてしまうものです。この人の場合もそうでした。うん、と背伸びをして、がらんと静まり返った事務室を見渡しました。他の課室はすでにみんな帰ってしまっていて、もう部屋の中に点いている電気も一部だけです。

 そろそろ帰ろうか。

 机の上には飲み干した缶コーヒーがありました。空き缶を捨てるついでに、まあトイレでも寄ってから帰ろうじゃないかと思い、一旦パソコンの画面をスリープに切り替えて、席を立ちました。事務室の扉を開けると、もうこの階に明かりはありません。上の階や下の階からも、声は響いてきません。ただ静かに、コピー機と自販機だけが震えていました。

 カコン、と缶をゴミ箱に捨てて、トイレを済ませて、手を洗って、もう一度、うん、と背伸びです。さあて今日はもうおしまいだ。そう思うと足取りも軽くなります。あとは事務室のパソコンでメールチェックをして、すっきり帰ろうじゃないか、と。

 そうしたら、いたんです。

 執務室の中に、見知らぬ男が。

 どう見たって職員じゃないんです。スーツを着てもいなければ、クールビズ的な服装でもありません。なにより、年が随分上なんですね。再任用で六十過ぎという職員は珍しくはありませんでしたが、その男は七十は優に越えているだろう、という容姿でした。ボロボロの、作業着のような服を着て、妙な臭いまでしているのが十歩先からでもわかりました。

「どなたですか」

 後ろから声をかけたのに、驚きもしないで男は言うんです。「上司はどこだ」と。

「もう定時は過ぎていますから、すでに帰宅しております」というような、ありきたりの言葉で返したそうですが、その公務員の方、内心ずっと怯えていたんだそうです。そのやりとりをしている間、男はずっと、こちらを見もしないでパソコンの、そう、その人がスリープにした画面のロックを解こうとして、パスワードを打ち続けていたんですから。

「お前じゃ話にならん」男はそう言うんです。「上司を出せ。課長か、部長だ」

 たびたびこういう人は来るんだそうです。外部の人も立ち入りできるような庁舎でしたから。こう、NPOの団体なんかが気楽に相談に来られるような場所だったんですね。だから、いきなりクレーマーじみた人がやってきて、上司を出せと言い出す。このくらいのことには、慣れていました。二言目には「俺は議員と繋がりがあるんだ」とか、そういうことを言う人たちです。けれど、そのときばかりは時間がマズかった。周りに残っている人も誰もいません。警備室の番号なんてわかりもしない。本当の不審者ですよ。どうしたらいいのか、その人はわからなかった。

「明日、改めてお越しください」

 かろうじてそう言ったのも、まるで意味がない。

「上司を出せ!!」

 今度は大声で、男は言いました。これは危険な男だ、とその人も思いますよ。下手に刺激はしたくない。逆上して、刃物を持ち出されることだってあるかもしれない。だから、かえって下手に出て訊ねました。

「どういったご用件でしょうか」

 このときはこの人も知りませんでしたが、これはある種の賭けを含む質問なんです。ひょっとすると、刺激になってしまう可能性もあった。どうして用件を訊くだけで?と思うかもしれませんが、そういうこともあるんです。平の職員ごときに話を聞かれるのが嫌で仕方がない、という方も、珍しいですがいるにはいるんですよ。特に「上司を出せ」とすぐに言うような方の中には。酷い方を相手にするときには、段階的に対応する人の階級を上げていくしかないんですが、この日はもうみんな帰ってしまっているから人の出しようもない。

 でも幸運なことに、この男はそうではありませんでした。

「政策提言をしてやったんだが、それがちゃんと上まで上がっていない。上がっていたら、こんな行政が続いているわけがない」

 まあ、こういうことを言うんですね。おや、意外に理性がありそうだぞ、と思って対話を続けました。そうすると、幸運なことにこの男の言うことは、どうもその職員さんとは関係のない部署の担当事項だったようなんです。同じ部屋の中にある、別のところが担当している内容だったんですね。

「そちらの職員も帰ってしまいましたので……」そう言うと、男はやはり「上司を呼んで来い」と答えるんですが、最初と比べて勢いは弱くなっていました。目の前にいるのが関係ない人間だと思ったんでしょうね。怒鳴りつけるような口調ではなくなりました。

「申し訳ありませんが、こちらでも別の部署の人間の連絡先までは管理しておりませんので……」こちらもしおらしく伝えれば、とうとう男も「明日朝イチで来るから、よく伝えとけ」と言って去っていきました。

 ほーっ、として、それから思い立って、警備室の番号を調べて内線をかけました。かくかくしかじかで、こんな人が庁舎の中に入り込んでいるみたいなんです。で、こういうところに勤めている警備員さんなんていうのは大抵が警察OBですから、頼もしいものですよ。「ああ、ああ。わかりました。庁舎から出てくるとききつく注意しておきますよ」なんて応えておしまいです。あんまり騒がれなかったものだから、その職員の人も「なんだ、深夜勤務なんてこんなものなのか」なんて気にもなってしまった。一応、そのクレーム先の部署にメモとメールで「こんな人が来ていました」ということを残して、執務室を閉めて、それで職場を後にしました。

 でも、次の日の朝です。

 やっぱりそれでも、直接その当事者になる部署に口頭で説明しておきたいな、といつもより一時間早く職場に着いたんです。まだ職員用の裏口しか開いていないような時間ですね。それで、執務室はもう開いていました。大体一人か二人、朝早くから開けている人たちがいるものなんですね。電車だとか、道路の混雑を嫌って朝早くに出勤してくる人たちが。

 おはようございます、と声をかけて、ロッカーに荷物を置いて、さてじゃあ連絡に行こうか、と思い立って、そこでようやく気付きました。

 もうその部署にも、一人、人の姿があったんです。

 昨夜の男が、課長の席に座ってパソコンを弄っていたんですよ。何度も何度も、キーボードをでたらめに叩いて。

 執務室は広いですし、他の部署の人の人相なんて確認もしませんから、そこで気付いたのはその職員の人だけです。もうどうしたものかわからなくなってしまって、他の職員の人に話しかけて作戦会議ですよ。結局、警備室に連絡して、連行されていきました。

 そして後になって警備室から、こんな事務連絡が、全職員あてに届いたんだそうです。


『非職員が寝袋等を持ち込み、閉庁時間である深夜にも庁舎内部に滞在し、数ヶ月にわたり部長室近くの空き倉庫で生活を続けていた、という事例がありました。各部・各課におかれましては、鍵の管理を徹底の上、職員に危険のないよう配慮した時間外勤務への取り組みをお願いいたします』



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