20話 キャンプ11
釣りを始めて一時間が経過した。
その間にユリウスは、どうにかマルクトを引き剥がすことに成功した。
とはいっても、どこかを見始めたと思ったら「ここじゃ釣れそうにないし、他の場所へ行くとするよ」と言って、どこかへ行ってしまったのだ。
まぁ、ユリウスからしてみれば、今のマルクトは邪魔者以外のなにものでも無いわけで、その言葉には心の底から歓喜したのだが、よくよく考えてみたら、マルクト自身が原因なんだから、移動しても意味ないんじゃ、と思い始めていた。
「まぁ、あいつがどうしようと知ったことじゃないが、とりあえずこれで俺の負けは無くなったな」
川に浸かっている網カゴの中にいる魚達を見て、ユリウスはそれを確信していた。
◆ ◆ ◆
マルクトは今、山の更に上の方へと来ていた。しかし、その場にいたのはマルクト一人だけではなかった。
「……なあ、アリス。そろそろどこに向かっているのか教えてくれてもいいんじゃないか?」
アリスについていくこと一時間、マルクトはずっと山の中を歩いていた。
未だに何の用件で呼んだのかを話さないアリスは、マルクトを先導するだけで、ついて来ているかを確認する程度で、ほとんど振り向かずに、歩きにくい道を歩き続ける。
いったい何の用で呼んだのかと聞いても、さっきからこの調子で答えてくれない。
そもそも、何故このようなことになっているのかというと、釣りの途中、人差し指を口の前に立てて、手招きしたアリスに、何の用かと気になって、マルクトはついていくことにしたのだ。
更に三十分程登っただろうか。空が段々赤くなり始めた。
「………先生、先日は助けていただき、ありがとうございました」
急に振り返ったアリスは、そう言って、頭を下げてきた。
彼女が述べている先日とは、おそらく、六月のはじめに起きた事件だろうと推測出来たが、そのお礼は事件の起こった日にしっかりと彼女の口から聞いている。
「前にも言ったが、気にしなくていい。教師の俺が生徒であるアリスを守るのは当然のことだ。別にお礼なんて必要ない」
これは、お礼を言われた日に、アリスへと伝えた言葉、それを一字一句違えずに、改めてそう言った。
しかし、意外なことに、アリスがその言葉を否定するように、首を振った。
「……それは違いますよ、先生。私がやりたいからお礼をするんです。……それに、普通の先生は、目の前に迫る危機から、助けてはくださいません」
「……そうなのか? ……てっきりそういう先生ばかりだと思ってた」
「違いますよ。ほとんどの人間は、あの状況になれば、我が身可愛さで逃げ出してしまいます。少なくとも、私が今まで会った他の先生方は、そういう人種ばかりでした」
「………そんなことはないんじゃないか? それに、俺はまだまだ成り立ての未熟者。なにもやっていないし、出来てない」
「そんなことありません! エリスさんから聞きました。失神したエリナさんを守っていた時、死んでもおかしくないような傷を負った体を動かして、助けに来てくれたって! 先生は素晴らしい方です!」
「………それは、俺のミスで二人を危険に晒したんだ。やって当然ーー」
「その当然が出来るから、凄いんじゃないですか!」
おとなしいアリスが、声をあらげている。彼女が興奮しているのが伝わってくる。
アリスは、再び前を向いて「……もう少しですから」とそう言って再び進み始めた。
◆ ◆ ◆
「へ~、なかなかの絶景じゃないか!」
アリスに連れられてやって来た場所は、山の頂上にある平たい丘だった。
振り返ってみると、赤く燃ゆる夕陽をバックに、彼女は立っていた。
アリスは、顔を赤らめながら、もじもじし始めた。
「……先生、覚えていますか? 小さい頃に私が先生とお会いしていたことを」
「もちろんだ。ユリウスが人目に触れないように、城の中でよく勝負を受けていたからな。いつも、ユリウスにくっついていたあの可愛らしい女の子がアリスだろ?」
「…………はい、それで間違いありません。……それで、あの、……その時した約束を覚えていらっしゃいますか?」
アリスの声は、小さかったが静まった空間だったため、なんとか聞き取ることはできた。だがーー
「……すまん。確かになんか約束したような記憶はあるんだが、その内容までは、さすがに覚えてないみたいだ。本当にすまない」
アリスは、少し残念そうに、「……そうですか」と呟いた。
「……では、改めて言います。マルクト先生、私は、初めて会った幼き頃より、あなたのことだけをずっと想ってきました。わ……私と結婚を前提にお付き合いをしていただけませんか?」
長い沈黙が辺りを支配する。
彼女の言葉が聞き間違いなんじゃないかと、もう一度聞こうとしたが、その真剣な表情を見て、聞くのをやめた。
それに、答えは決まっていた。
「……悪いな、アリス。俺はお前の気持ちに答えられない」
マルクトは、アリスの告白にそう応えた。
アリスのことは、一生徒であり、俺が個人的に魔法を教えているメンバーの一人としか見ていなかった。
唯一他と違うところはユリウスが溺愛している妹というぐらいだが、それは理由として使わない。
「………そう……ですよね。いいんです。……わかってましたから」
しかし、意外なことに、アリスはそれがわかっていたかのように、言ってみせた。
「……わかってた?」
「はい。先生の中には既に一人の女性で埋まってますよね? …………それがわかっていても、私はあなたにこの気持ちを伝えたかったのです」
その言葉に、動揺して動けないでいる俺に向かって、その想いをぶつけた。
「……でも、私は諦めませんから! ……今は先生の中に、心に決めた人がいて、その人のことしか頭にないみたいですが、これからもっと自分を磨いて、いつか、その人よりも良い女になって、私がいいと先生の口から言わせてみせます! 絶対に!」
アリスがそう言った後に見せた笑顔は、儚げで、人を引き寄せる魅力を放っていたが、その心の内でどれ程、悲痛の叫びを上げているのか、今のマルクトにはわからなかった。




